[久留米の戦前のアマチュア無線]

戦前、九州のハムは26名であり、このうち、久留米市には3名の方がいた。栗林幸世(J5CG)さん、能登原新(J5CL、戦後JA6JPP)さん、能登原 茂(J5DH、戦後JA6CS)さんである。栗林さんは福岡県でもっとも早く、昭和6年(1931年)6月に免許を取得している。それ以前、J3DNのコールサインをもっていたのは確かであるが、この年の6月11日現在のコールブックには久留米市日吉町の住所でJ5CGと記載されており、いろいろ調べたがJ3エリアでのコールサインは見つからなかった。

能登原兄弟の兄である新さんは昭和8年(1933年)11月、弟である茂さんは14年(1939年)8月にそれぞれ免許を取得している。栗原さんは昭和11年ごろに横浜に転居し、その後、戦前、戦後ともに申請はしなかったらしい。能登原兄弟は栗林さんと交流があり、新さんは免許や無線機製作の指導を受けていた。また、茂さんは中学2年のころハムになりたいと相談したことがある。

新さんは海軍省に勤務、免許取得後2カ月で免許を返上して東京へと移っていたため、茂さんが相談するのは栗林さんであった。茂さんに栗林さんは「英語も数学もだめな君に短波をやって何になるんだ」とひどくしかられたという。茂さんは栗林さんの自宅に英語の勉強のために通っており、無線機やQSLカードを見せられてハムにあこがれたという。

久留米市で最初のハムであった栗林さんのQSLカード

[久留米の戦後のアマチュア無線]

戦中、戦後の長い空白期間の後、昭和27年(1952年)にアマチュア無線が再開された。久留米市では宮原精一郎(JA6AC)さん、秋吉康彦(JA6AI)さんがこの年に免許を取得している。翌年には、岡崎幸雄(JA6AQ)さん、島田金二(JA6AN)さんが、そして戦前のハムである能登原 茂(JA6CS)さんがそれぞれ免許を得ている。

約10年ぶりに、久留米の空に電波が飛び交うことになる。昭和29年(1954年)は久留米市の通信界は賑やかとなった。準備を進めていた九州朝日放送が1月1日に久留米市の旭屋デパート(現久留米井筒屋)に本社を置き開局。アマチュア無線では「久留米クラブ」設立の動きが高まり、5月の久留米市筑後川原で行われた「非常水害訓練」への参加により、久留米のハム達の結束は強まった。

昭和29年、筑後川水難訓練が行われ、ハムも参加した

昭和30年、久留米クラブが発足する。会長には市村一夫(JA6SM)さんが選ばれた。会員は約20名だった。このころのことを森さんは「クラブが発足していたことは知らなかったと思う。知っていたとしても接触することはなかった」という。ひとりで、海外放送を聞き、テレビ放送開始を前に白黒テレビ受像機のキットを求めて、組立てたりしていた。

[合唱団がとりもつ結婚]

森さんのもうひとつの趣味は歌うことであった。昭和30年(1955年)22歳の時に久留米市に生まれていた「アリオンコール合唱団」に入り、ストレスの解消も兼ねて楽しんでいた。2年後、「アリオンコール合唱団」は指揮者が都合でやめたために解散する。やむなく、メンバーは、もうひとつの合唱団である「久留米合唱協会」に合流することになった。

その合唱団で、森さんは現在の奥様である公子さんと知り合い、25歳になった昭和33年(1958年)結婚する。仲間は「合唱結婚式」で祝ってくれた。「公子の公は、ハムですから」と森さんは冗談をいうが、この合唱団はレベルが高かった。久留米市には福岡県立明善高校(旧明善中学)があり、この学校が久留米市の音楽振興に大きく貢献した。

昭和30年、久留米クラブが発足した。写真は昭和31年のミーティング

この学校からは作曲家の中村八大さん、指揮者で医師の本間四郎さんなどが輩出されたが、同時に「アリオンコール」の指揮者を勤めていた明善高校の教師で、住職の傍示暁了さんも、この学校の卒業生であった。また、久留米市の音楽振興を積極的に支援したのが、この地で生まれたブリジストンタイヤであった。

[久留米で生まれたブリヂストンタイヤ]

ブリジストンタイヤの前身は、久留米市で家業として足袋を製造していた個人業者だった。大正12年(1923年)に地下足袋を開発して、徐々に事業を広げ、地下足袋に使うゴムに着目しゴムを取り扱うことで企業として成長、昭和6年には石橋正二郎さんが資本金100万円で「ブリジストンタイヤ」を設立、自転車、リヤカなどのタイヤから自動車用タイヤをを主力とするようになっていった。

同社の発展の原動力となったのは、タイヤに品質責任保証をし、使用者の信頼を得たためといわれている。太平洋戦争前には、意欲的に海外での生産・販売に乗りだし、満州、中国、朝鮮、台湾にも現地企業を設けるなど「石橋財閥」を築き上げた。終戦によりこれらの海外資産を失うが、再起を図り現在では世界のタイヤ市場で高いシェアをもつ。昭和17年(1942年)には本社を東京の京橋に移転したため、森さんが合唱を始めたころには、ブリジストンタイヤの製造拠点は久留米市に多かったものの、すでに本社はなかった。