[團伊玖磨の名曲 筑後川]

ついでに合唱団の話題についての余談を書く。「久留米合唱協会」は、やがて「久留米音協合唱団」へと発展していくが、それを支えたのが地元企業180社であった。森さんによると「音楽の底辺を広げるのには合唱が適している、という考えから合唱の振興が図られた」という。その支援企業の中心がブリジストンタイヤであり、会長になっていた正二郎さんや、2代目社長の石橋幹一郎さんであった。

合唱団を含め、久留米市の音楽活動全般を管轄する「久留米音楽文化協会」の事務所はブリジストンタイヤの本社・総務部に置かれ、何かと支援してくれた。その最たるものが「石橋文化センター」や、当時の音響工学では日本の最先端といわれた「石橋文化ホール」の建設であり、今では名曲として知られている合唱組曲「筑後川」の作曲であった。

「筑後川」は「久留米音響合唱団」の創設5周年記念の合唱曲として作られた、作詞は地元の丸山豊さんであり、作曲は団伊玖磨さんである。団さんが引きうけたのは、石橋幹一郎社長とのつながりからであった。実は石橋社長の奥さん朗子さんは、プリンス自動車社長の団伊能さんのお嬢さんであり、伊玖磨さんの妹であった。作曲は石橋社長から義理の兄に依頼する形となった。

ちなみに、団伊能さんの父親は福岡藩生まれで、明治、大正、昭和初期に実業、財界で活躍、三井合名会社理事長となった団琢磨さんであった。「筑後川」初演では森さんも合唱に加わった。その後、この曲は全国で歌われるようになり、とくに第5楽章の「河口」は、学校の卒業式の場で合唱されることが多い。「筑後川が有明海に注ぐ情景が、学校を巣立っていく卒業に例えられるからである」と、森さんはこの歌を懐かしむ。

平成4年、石橋文化ホールで行われたコンサート。森さんと奥様も加わっている

[森さんハムに]

合唱の話しが長すぎたが、「九州大水害」で水没した森鉄工所の経営も徐々に軌道に乗り始め、また、個人的にも家庭をもったことからゆとりが出てきた森さんの頭に、再び無線が浮かんできた。「時々受信していたアマチュア無線の交信を聞いているうちに、ハムになりたいという願望が募ってきた」と、このころのことを話している。昭和37年(1962年)、森さんは熊本市の熊本電波高校(現熊本電波工業高等専門学校)にアマチュア無線2級の試験を受けに行く。

森さんは戦時中の小学生時代に、次兄の克巳さんから合調語で英文モールスを教えられていたが、和文に自信がなかった。そのためCW(電信)のない2級の受験になったが「読んでいたテキストと同じ問題が出題されるなど幸運だった」という。その問題は「鉛蓄電池の正極作用について述べよ」というものだったと、森さんは記憶している。

この年の12月21日付けの免許が交付されたあと、予備免許を申請しコールサインはJA6CZDとなり、無線設備の検査を受ける。設備検査は何ら問題がなく翌38年(1963年)5月11日に本免許が交付される。しばらくは国内との交信をしていたが「どうしても海外と交信したい。そのためには1級を取り、電信をやらなければ」と森さんは決意。昭和39年(1964年)に1級に合格する。

森さんが免許を取り、ハムになったころのシャック

[KDXGに加わる]

電信をたたくようになった森さんは、早朝、深夜にも海外との交信に没頭する。フィリピン、ハワイを初め交信局数は増えていった。ただし、アワードには興味はなく「無線機を改造したり、作るのが楽しかった」という。送信機はすでに売り出されていたキットを組立てたが、リニアアンプは自作であった。また、アンテナには一段と興味をもち、作ってはこわして、さまざまなアンテナで実験した。

DXに取りつかれた森さんは、すぐにKDXG(九州DXギャング)のメンバーとなる。「Gang=ギャング」は、日本では「悪漢の一味」という意味合いが強いが、「遊び仲間」という意味もあり、この場合はそれである。KDXGの命名者は、実はハワイから来日した野瀬堅(KH6IJ)さんであり、昭和39年9月15日に発足した。野瀬さんは世界的に知られたハムであり、お父さんが九州出身であったことから、戦前にも来日し、当時の日本のハム達と交流していた。

九州のDXer達は、昭和30年代末に仲間が集まってクラブを設立したらどうか、と議論しており、ちょうどそのころに野瀬さんがやってきた。野瀬さんは即座にKDXGの名称を提唱し、顧問に就任した。野瀬さんはアマチュア無線の世界だけでなく、ハワイ大学の教授としても業績をあげており、昭和46年(1971年)に「ティーチャー・オブ・ザ・イヤー」に選ばれている。残念ながら平成6年(1994年)になくなっている。

ハワイ大学の教授であった野瀬さん

[井波さんとの交流]

アマチュア無線に志したころ、森さんは同じ久留米市に住んでいた井波眞(JA6AV)さんと知り合う。井波さんは福岡県生まれ、戦前に無線電信講習所を卒業し、戦後にNHKに入社した後、昭和28年(1953年)にアマチュア無線1級に合格。戦前にハムになろうとした時にはすでに政府によって、アマチュア無線が禁止された時期に遭遇、戦後も再開まで待たされた世代であった。