[JA6の中心 井波さん]

井波さんについてもう少し触れると、開局後間もなく昭和28年6月の大水害での「非常通信」で活躍した後、12月には九州朝日放送に転職するなど、ハム第1年目はまことに慌しい生活を送っている。JARLの九州支部は昭和28年に設立され、井波さんは発足時から関与し、副支部長に選ばれている。

森さんがハムになった昭和37年(1952年)には、井波さんは福岡市に転居し、JARL福岡県連絡事務所長となっており、また、九州朝日放送では最終的には役員待遇の技術局長となった。ちなみに、その後の井波さんのJARLでの役職を記しておくと、九州地本本部長、本部理事、本部副会長を歴任し、アマチュア無線の関係会議や、活動のためにしばしば海外にも出かけるなどの活動をされた。

井波さんの海外初交信の相手は野瀬さんであり、その後2人は電波を通して、また、野瀬さんが九州にやってくるたびに親しくなっていた。森さんはKDXGを通して、井波さんとは一段と交流を深めることになった。DXer同士であり、とくにアンテナに興味をもっていた2人だけにアンテナについての意見交換が増えていった。森さんは、やがて森鉄工所の事業として「クワッドアンテナキット」の販売を始めるが、そこには井波さんからの要請があった。

森さん(左)と井波さん(平成11年)

[高効率のクワッドアンテナ]

キュービカル クワッドアンテナは、昭和30年(1955年)に米国のアマチュア無線雑誌「QST」に紹介された。レスリー・ジュニア(W5DQV)さんが14MHz用に製作したものであった。当時、久留米市に住んでいた井波さんは、そのデータをテストするために、日本で初めてこのアンテナを自作して性能比較を行った。この時、協力したのが同じく久留米市の岡崎幸雄(JA6AQ)さんであった。2人はクワッドアンテナと八木・宇田アンテナの双方でテレビ電波を受信して、性能を比較した。

その結果は「2エレメントのクワッドが八木・宇田アンテナの5~7エレメントに匹敵することが立証できた」と、井波さんはいう。井波さんは翌年、レスリー・ジュニアさんのデッドコピーを作って立ち上げたが、台風で竹のスプレッダーが折れ回転支柱が曲がるなどの被害を受けて、4回も作り直す。

井波さんは「久留米は竹どころ。竹材には不自由しないものの台風ではもちろん、春の嵐でも折れてしまう。これでは実用的ではない」と判断、森さんに相談する。「軽くて強く、形状の良いクワッドアンテナをつくって欲しい」と。もちろん、森さんが役員として勤務している森鉄工所が「多くのハムのためにつくられたらどうですか」ということでの提案であった。

キュービック・クワッドアンテナ

[クワッドアンテナの製作]

森鉄工所は、このころ地元のブリヂストンタイヤとのつながりが深くなりつつあった。当時は「モータリゼーション」という言葉が流行したが、要は自動車の普及が進み、それにともない、関連産業が潤い、また、人々の生活も変わることを意味した言葉であった。森鉄工所もこの波に乗り、自動車用タイヤ製造用の「タイヤ成型ドラム」の需要が増えていった。

森さんは、結婚とともに森鉄工所の取締役に就任していた。役員となり経営責任が重くなった森さんは「事業の多角化を図るためにアンテナの製造もそのひとつ」であると判断。本格的にクワッドアンテナキットの製造、販売に乗り出すことにした。このころ、わが国のハムの数は急速に拡大を続けており、「そのハムの多くが効率の良いアンテナを探している。その人達に喜んでもらえるアンテナの提供は立派な事業」と決断したのである。

なかでもDXに挑戦するハムは、同じエレメント数ではクワッドアンテナが八木・宇田アンテナより優れていることを知りつつあった。問題はクワッドアンテナの構成が繊細なだけに、強風に破損されてしまうことであり、それに悩んでいた。市場を詳細に調べてみても「クロスマウントの市販品はなかった。ますます製造の義務があると思うようになった」と森さんは当時を話す。

[森鉄工所アンテナ資材部発足]

地元KDXGのメンバーの多くもアンテナを重要視しており、森さんは意見を聞いた。共通していたのは井波さんと同じ悩みであった。森さんは何度か試作を繰り返し、実際に送受信に使用した。開発面で苦労したのは「軽量で丈夫な材料探しだった」と森さんはいう。金属部分はアルミ合金で解決したが、問題はスプレッダーアーム材であった。井波さんも強風で何度も折ってしまった材料である。

KDXGの集まり(昭和57年)

森さんも釣り竿店を回った。丈夫な竹材を探して回ったが無駄であった。そこでぶつかったのがグラスファイバーであった。竹に比較したらはるかに軽く、丈夫である。しかも釣り竿で実現されているように簡単に接ぎ差すことができるために、長さはは半分にして出荷が可能である。森鉄工所は「アンテナ資材部」を発足させて、キットの製作に取りかかった。