[画期的な技術採用のローテーター]

生産を取りやめた「MORI ROTOR」は実は森さんの画期的なアイディアによって生まれたメカニズムをもっていた。森さんは「当時、ロングブームの大型アンテナを搭載可能なトルクをもち、また風圧に耐えるローテーターの要望は強かったし、私自身も欲しかったため、考えに考えた」という。

最大の特徴が「遊星差動減速機」の開発であった。その仕組みは、回転する上ハウジングと固定された下ハウジングの内側にそれぞれ歯数の異なる内歯歯車「インターナルギヤー」を設け、その上下のインターナルギヤーを縫うように同時にかみ合う一対の遊星ギヤーがローターの軸を中心に回転する、というもの。

「インターナルギヤー」の歯数は60と59のため、60対1のギヤー比が一挙に得られ、遊星ギヤーが60周すると上ハウジングは1回転することになる。アンテナ側からはロックに近いブレーキ効果があるのも特徴であり、強風による逆回転も防がれていた。したがって、大型アンテナに必要なほとんどの条件を満たしている。しかし、森さんはあえて特許を出願しなかった。「公報による模倣を懸念した」からである。

当時、アンテナ回転用のローテーターの価格は、3万円から8万円程度であり、12万5000円は飛び抜けて高価であった。しかし「MORI ROTOR」の評判は良かった。とくに米国では小型であったことが評価された。森さんは「当時、米国では3角アンテナタワーが盛んに使われており、その中に収納できる大きさをねらった」という。

[アマチュア無線衛星オスカー]

森さんは森鉄工所でアンテナやローターを製造する一方で、無線機の自作に取り組んでいた。すでにHF機は無線機メーカーからさまざまな種類が発売され始めていたため、50MHz、144MHz機、さらには430MHz機に挑戦する。当然真空管を使っての挑戦であった。手作り無線機を車に載せて走り回ったのもこのころであった。

昭和48年(1973年)には、米国のアマチュア無線衛星「オスカー」による交信を成功させた。「オスカー」は、昭和36年(1961年)12月に第1号が打ち上げられたのを皮切りに、翌年第2号、40年に第3号が打ち上げられた。この第3号から初めて「上り回線」つまり、受信機能をもたせ、交信が可能となった。16カ国の100局強が交信したといわれている。ただし、このころの衛星は水銀電池などの一次電池を電源としているため、ほぼ20日程度で運用が停止する短命なものであった。

全電力を太陽電池でまかなうようになったのは、昭和47年(1972年)の「オスカー6号」であり、約5年の寿命をもつようになった。森さんが利用したのはこの6号であった。森さんが衛星交信に挑戦したのは、骨折による長期休養がきっかけとなった。昭和48年(1973年)の夏、森さんは交通事故による複雑骨折で長期入院、療養生活を送ることになった。

[取り組んだ衛星交信]

森さんは考えた「一生に何度もないこの自由な時間を有効に過ごそうと考え、ふと思いついたのがサテライト通信だったという。森さんはすぐにオービット(軌道)を算出し、ワッチを始めるものの「ノイズばかりでそれらしきものは受信できなかった」という。そのうちに上空を通過する衛星のテレメトリー信号を受信でき、続いてQSB(フェージング)をともなったノイズの中からCWを聞くことに成功する。

森さんは「味気ない病室も楽しいシャックに変わり、数ヶ月の療養生活も瞬く間に終わり正月はオスカー経由で新春の挨拶を交わすことができた」と当時の喜びを思い出している。そして、オスカー受信には「たいそうな設備は必要ない。2パラに10Wもあれば十分いける。受信もダイポールにプリアンプをつなげば十分である」と、当時の久留米クラブの「20周年記念特集号」書いている。

「オスカー衛星」交信には後日談がある。久留米クラブの会員13名は昭和53年(1978年)3月にフィリピンに出かける。カラリヤ山で現地のハムと混成チームを組み、WPXコンテストに参加するためであった。この時、森さんらは「オスカー」を利用して、日本との交信を試みる。

八木・宇田アンテナを手にもち衛星の方向に向けて方位を確認し、まずテレメトリーを受信して、バッテリーの状態をチェックした後、交信を始めた。この年の3月5日に「オスカー8号」が打ち上げられたばかりであった。森さんは「衛星の方向は感で決めたが、10数局の日本局と交信できた」という。

久留米クラブは50MHz、144MHzを使ってのフォックスハンティングをしばしば催した。昭和47年5月

[月面反射]

衛星通信に興味をもった森さんは次ぎにEME(月面反射)に挑戦する。森さんがEMEに関心をもったのは早かった。米国のEME成功の記録を読んでいたほか、実際に海外でEMEに挑戦しているハムの自宅を訪ねて刺激を受けていた。実は、EMEの歴史ははるかに古い。1935年、日本の昭和10年に「ナバル リサーチ ラボラトリー」の若手技師がハイパワーのメートル波レーダーで月の反射をとらえたといわれている。