[貧しかった小学生時代] 

昭和14年(1939年)、山之内さんは福岡県に生まれたが、ほどなくして一家は釜石市に移る。父親が大手製鉄会社に勤務しており、転勤となったからである。太平戦争が始まった昭和16年(1941年)の記憶は当然のことだがないが、戦時中の体験は断片的に残っているという。「鉄は国家なり」といわれ、軍備には欠かせなかった製鉄業も戦争末期には資源不足のため苦しい状態にあった。

終戦となった昭和20年(1945年)、父親は仕事のない製鉄業を見限り転職、仙台市内に移り、少ない資金で反物を扱う呉服商を始める。昭和12年(1937年)から始まった日中戦争から8年間も続いた戦時経済により、国民は疲弊していた上に敗戦により経済も混乱していた。最初は古着などを扱わざるをえなかった。戦後「食うや食わず」の状態であった当時の日本人はみな必死に働いた時代であった。山之内さんも「365日、24時間働いていた父親の姿を思い出す」という。

昭和21年(1946年)、山之内少年は市立東2番町小学校に入学。日本経済も徐々に立ち直り、父親の呉服商も軌道に乗り始め、山之内少年が小学校を卒業する27年頃には「事業としては成功を収めていた」という。山之内さんには兄・和彦さんがいたが、ともに工作好きであり、エナメル線を買ってきて、モーターを作りスクリューを取り付けた船を作ったり、プロペラを回転させる飛行機を作った。

[ラジオに興味をもつ] 

戦後、国民の安価な娯楽、楽しみはラジオ放送だった。山之内少年は小学校を卒業する頃、鉱石ラジオを作った。放送局の送信所は近くにあったが、レシーバーはマグネチック型であり、入力が少なく弱い音声でしか受信できなかった。どうしても真空管式のラジオを作ってみたかった。

幸いだったのは、東北最大の都市である仙台市では、必要なラジオ用パーツが手に入った。現在の東北大学川内キャンパスの土地には米軍の駐屯地があり、米軍の通信機やパーツなどが放出され、市内五橋(いつつばし)や花京院にあったジャンク屋に出回っていた。ラジオを組み立てたくとも、近くにジャンク屋はもちろん、ラジオ屋もない田舎の少年に比較したら恵まれた「ラジオ少年時代」だった。

低周波出力段のない3球スーパーラジオを造ったのは、昭和28年(1953年)、中学2年生の夏休み、工作の宿題としてだった。レシーバーで聞いても十分な音量があり、選択度も申し分なかった。「同じ中学にはほかには“ラジオ少年”はいなかった」という。昭和30年(1955年)、仙台高校に入学するとともに、放送部に入部する。ラジオ組み立てを目的としたクラブがなかったからである。一方、学外ではJARLの「仙台クラブ」に所属した。

「放送部には結局3年間所属したが、校内放送活動が目的の有線で放送する世界。無線でないためおもしろくなかった」という。それでも、技術を生かしてアンプやレコードプレーヤー、電蓄、ワイヤレスマイクを造った。すでに、この頃アカイからテープレコーダーのキットが販売されており「組み立てて、取材用に使った」ことを記憶している。

当時のヘッドホン --- マグネットで鉄板の振動板を可動させ、音声変換していた

[短波放送を受信] 

短波放送を聞いたのは高校に入学した年、2バンドの5球スーパーを造ってからである。「仙台クラブ」のメンバーにもいろいろ教えてもらったが、お兄さんがその道でも先輩であった。優秀な少年であった和彦さんは、仙台1高を卒業後、東北大学に進み、結局学問の道を歩み、教授となる。テレビ受信機では欠かすことのできない「くし型フィルター」は実は和彦さんの開発である。

短波を受信し、アマチュア無線を知った山之内さんは「仙台クラブ」で、戦後、再開されたアマチュア無線の免許をいち早く取得した先輩ハムに会う。三浦恒裕(JA7AB)神尾栄(JA7AD)さん、野口光男(JA7HC)さんたちであった。戦前のハムでは高山三雄(J6DH)さんもクラブのメンバーであり、その頃は再び、免許を取りJA7BUのコールサインをもっていた。

頻繁に先輩ハムに会い、交信を聞いていた山之内さんは、すぐにでも免許が欲しくてやむに止まれぬ気持ちとなる。高校2年、準備が不十分なまま、2級アマチュア無線技士の試験を受ける。同じ仙台高校からは、物理科学部に所属していた友人の2人だけの受験であった。しかし、山之内さんは失敗する。

電気に見せられた山之内さんは神奈川県の大学に進む。工学部でエレクトロニクスを専攻。2年生の時、帰省した仙台で魚釣りに行く途中にオートバイ事故で3日間意識不明の大怪我をする。結局、学年は1年遅れたが3年生の春休みに仙台に帰省したおりに、2アマに合格、念願のハムになる。

バリコン(可変コンデンサー)鉱石ラジオ、真空管ラジオの時代使われていた