[41名のハム] 

山之内さんが「仙台クラブ」で教えを受けた高山さんは、大正7年(1918年)生まれ。戦前の東北のハムでは、大正9年(1920年)生まれの樋口憲一(J6DC)さんに次いで若かった。したがって、山之内さんが「仙台クラブ」に加わった昭和30年(1955年)の頃には、まだ37歳前後であった。

表1 戦前の東北地区のハムリスト(J6CA-J6CY)

東北の戦前のハムは、調べた限りでは41名である。わが国のアマチュア無線(当時は正式には「私設無線電信無線電話実験局」であった)の免許が下されたのは昭和2年(1927年)9月から10月にかけてであり、9局が開局した。当時のコールサインはJXAXからJXIXであり、この時には東北での免許はない。翌3年、ワシントン条約により、プリフィックスは国別標識の次ぎにエリア別数字を記載することが決まる。

この結果、昭和4年1月1日に日本全土と植民地をJ1からJ9とするプリフィックスが取り入れられ、東北は新潟県を含めJ6エリアとなった。戦前のハムを調べる場合は、これまでもあちこちの連載で書いてきたように、戦前に発行された和歌山市の宮井宗一郎(J3DE)さん編集の「宮井ブック」と呼ばれるハムリスト、誠文堂発行のリスト、JARL(日本アマチュア無線連盟)発行のリスト、そして、戦後に藤室衛(JA1FC)さんが苦心してまとめ上げたリストが参考になる。

「宮井ブック」は、住所、生年月日、職業、免許された周波数帯、出力なども記載されたものであるが、東北のハムリストを作り上げる場合でも、これらの何種類かのリストを参考にしても、なお完全なものとすることはむつかしかった。一部、空欄もあるがとりあえず、まとめたのがこの表1と表2(次回掲載)である。

宮井宗一郎さんが編集した通称「宮井ブック」。昭和9年1月版

[ハム先進地] 

41名のハムは、東京、大阪に告ぐ人数であり、東海のほぼ倍にあたる。しかも、昭和5年頃までの初期に免許を取得したハムも多い。昭和2年3月に免許を取っている有坂磐雄(J6CD)さんは、わが国アマチュア無線界では有名な方で、昭和元年(1926年)8月に免許を出願していた。この時、同時に免許が与えられたのが楠本哲秀さんであり、ともに当時は東京での免許である。

有坂さんは38mバンドでJLYBのコールサイン、楠本哲秀さんは80mバンドでJLZBのコールサインであった。個人としてはわが国初の「短波実験局」ではあったが、有坂さんは海軍の航空無線機の開発技術者で業務用に無線機を使用する、また、楠本さんは逓信省に務めており監視のための免許といわれ、この2人の免許をアマチュア無線局ではなかったという見方もある。

その有坂さんが仙台に移ってきたのは昭和6年。海軍の委託学生(海軍大学選科)として東北帝大電気工学部で学ぶためである。東北帝大では大正15年(1926年)に八木秀次教授、宇田新太郎助教授らが世界的な評価を受けた「八木・宇田アンテナ」を開発するなど国内でも電波通信技術レベルが高く、海軍は有坂さんに無線通信のさらなる技術習得を託したといえる。有坂さんは海軍大尉、海軍省嘱託の身分であり、この時28歳であった。

八木さんが大阪帝大に転出するのは昭和8年であるが、多忙なこともあり、有坂さんはもっぱら宇田さんに教えを受けたらしい。いずれにしても、東北にハムが多く誕生した原因が、東北帝大の影響や有坂さんの仙台への転居にあったのではないか、と想像できる。事実、有坂さんはアマチュア無線の立場からも技術開発に力を入れ後輩を指導し、また、JARL東北支部の設立のためにも活動した。

有坂さんのQSLカード

[八木・宇田アンテナ] 

アマチュア無線の受信アンテナとしても盛んに使われている「八木・宇田アンテナ」を開発した八木さんは、明治19年(1886年)に大阪に生まれた。東京帝大卒業後、英米、独に留学し、独では当時無線工学で有名であったドレスデン大学のバルクハウゼン教授から電波工学の知識を吸収、大正8年(1919年)に東北帝大の教授になってからも短波長の研究を進めるとともに、生徒を指導した。

「八木・宇田アンテナ」は、その研究の中で生まれたが、実際の開発については当時講師であった宇田さんや、助手がかかわっており詳細に追及すると複雑となりそうだ。ただし、全般的な指導は八木さんが当たり、まとめは宇田さんが行ったと理解すれば良さそうだ。宇田さんは富山県の出身であり、この別な連載「北陸のハム達。円間さんとその歴史」に詳しく紹介している。

「八木・宇田アンテナ」が、その後長らく国内では使われず、欧米で活用されたこともそこで触れている。さらにそのことを詳しく記すと、日本の開発した技術はレベルが低いと日本自身が決めてかかっていた風潮がわかる。昭和17年(1942年)、日本軍がシンガポールを占領した時、焼却炉に残っていたノートを押収した。レーダーの技術資料らしいため、そのノートは日本国内に送られた。