日本に送られたノートは兵器本部で調べられた。しかし、文中に出てくる「YAGI」の意味がわからない。どうやらアンテナの種類らしいが専門家でも知っている者がいない。ノートの製作者は捕虜としてシンガポールの収容所にいた。尋問すると、書いた本人は驚き「本当にYAGIを知らないのか。YAGIは日本人であり、アンテナの発明者ではないか」とあきれたという。

表2 戦前の東北のハムリスト(J6DA-J6EU)

[八木さんの活躍] 

その八木さんについてもう少し触れると、大阪帝大時代には戦後にノーベル賞を受賞することになる湯川秀樹さんを京都帝大から大阪帝大に招くなど、人材の育成に力を入れたという。事実、ノーベル賞の対象となった「中間子論」は、昭和9年(1934年)当時の業績に対してのものだった。

八木さんはこのように人を育てる能力や、意欲に優れており、開発者よりも指導者、経営者としての適正を多分にもっていた方だったらしい。戦時中に、八木さんは東京工業大学の学長に就任、次いで内閣技術院総裁となる。戦後は再び教育界に戻り大阪大学の総長となったが、戦時中の技術院総裁職が「戦争協力」とみなされ、GHQ(進駐軍)に教職不適格者指定を受けて、総長を離れた。

昭和27年(1952年)、設立された「八木アンテナ」の社長に就任する。わが国でもテレビ放送が開始されることになり、日立製作所、日本軽金属が出資し、八木さんも10%の株主となった。翌28年(1953年)には参議院議員選挙に全国区で立候補し当選、また、昭和30年(1955年)には武蔵工業大学の学長を務めるなど、やはり単なる技術開発者ではなかった。

戦後、アマチュア無線再開が容易に進まないことに悩んでいたJARLは、八木さんの力を借りることにした。昭和21年(1946年)、8月11日戦後初めてのJARL大会が、新橋の蔵前工業会館で開かれたこの席で八木さんが会長に選出され、その後八木さんらはGHQに再開のための請願書を持参し、早期再開を申し入れる。

GHQ側からは通信隊、民間通信局の佐官、尉官が出席、八木さんの名前は浸透しているらしく、対応は丁重だったという。GHQは「検閲を行わなければならないなどの問題があり、直ちに許可は無理だが、日本政府との接触は欠かせないように」という。そこで、八木さんらは逓信院に行き、再開の要望を伝えるなど活躍する。

このような経緯もあり、戦後ハムとなった多くの人が八木さんの偉業を尊敬しているが、政府も遅ればせながら叙勲・褒賞で応えた。昭和26年(1951年)に藍綬褒章、31年(1955年)に文化勲章、51年(1976年)に勲一等旭日大授章を受けている。歯に衣を着せることのない八木さんは、文化勲章が決まった時「かっては教職不適格者として追放しておきながら、今度は勲章をくれるという。国家とは不思議なことをするものだ」と批判したという。昭和51年に89歳で去った。

八木秀次さん

[TYK無線電話の島潟さん] 

八木さんは大阪生まれで、仙台で実績を上げた方であるが、秋田県で生まれ東京で画期的な開発をした人がいる。「TYK無線電話」を作り上げた3人のうちの1人である鳥潟右一さんである。「八木・宇田アンテナ」は現在でも世界中で使われているのに対し、この無線電話は今では姿を消したが、当時はやはり世界的な発明であった。

鳥潟さんは、明治16年(1883年)に北秋田郡花岡村に生まれた。両親は教育熱心だったため、9歳の時に大分県立病院院長であった伯父の家に預けられた。その後、旧制第1高等学校、東京帝大電気工学科へ進み、大学院を首席で卒業するなど秀才であった。卒業後は逓信省電気試験所に勤務、無線通信の研究に取り組む。

最初の画期的な開発は無線受信の検波器であった。それまでは金属粉を使った「コヒーラ-」が使用されていたが、不安定なために鳥潟さんは「タンタラム検波器」次いで「鉱石検波器」を開発した。「鉱石検波器」によって、受信安定性が高まり、また、感度も向上するようになったため、世界中で使用されだした。つい最近まではラジオ少年の自作入門機は「鉱石ラジオ」であり、この検波器を懐かしむハムは多い。

鳥潟さんは、明治40年(1907年)代に米国への留学、欧州への視察をし、先進無線通信の知識を得て帰国。この時、イタリアではマルコーニに「鉱石検波器」の実演を行ったらしい。大正元年(1912年)、音声を無線で送受信する「TYK」無線電話装置を開発する。「TYK」の名称は、共同開発者である鳥潟、横山英太郎、北村政治郎さん3人の頭文字から名付けられた。

マルコーニの信号による無線通信網はこの当時、世界的にできあがりつつあった。多くの技術者の次ぎの目標が音声の伝送装置の開発であり、その中での快挙であった。大正3年(1914年)には三重県の離島間で実験が行われ、このシステムはそのまま実用化され、2年後にはその鳥羽・答志島・神島の各局は公衆電話局として営業を始めている。

「TYK」無線電話装置「秋田県アマチュア無線史」より