東北支部は北海道もエリアに入れた組織となり、独立を契機に支部メンバーはJARLの活動に積極的となった。独立を支援したのが東京から転居してきた有坂さんで、この当時のことを有坂さんは後に「昭和6年の春頃から独立の必要性を感じ、種々研究折衝の結果、独立することになった。発会式では私は年寄りということで司会者をやらされてしまい、その後も年寄りとしてあれこれ相談を受けることになった」と記している。

当時、JARL各支部の代表は委員と呼ばれていたが、発会式では札幌の橋本数太郎(J7CB)さん、仙台の島貫さん、神山さんの3人を選出した。島貫さんは外国タバコを商う商売、神山さんは仙台逓信局の職員であった。有坂さんは、恐らく「研究学生」という立場から遠慮した模様であるが、翌日の集会では「C型増幅器」について発表し、当時の「JARL NEWS」によると「経済的なのに一同非常に喜ぶ」と記載されている。

支部集会は、毎月のごとく開かれ、また、東北のハム達の「JARL NEWS」への投稿もこの頃から増えだし、その内容を見ると活発な交信、研究ぶりがよくわかる。この年の秋には、島貫さんが「近頃サボっているので、今後一所懸命やります」三浦さんが「身体がFB(良くなる)になったので皆さんのQSO(交信)を待っています」神山さんは「W(アメリカ)専門にQSOしています」有坂さんは「超短波を研究します」などなどである。

支部が発足する直前、米国のハムであるヘンリー・Y・佐々木(W6CXW)さんが仙台を訪れた。日系2世である佐々木さんは日本を訪れ、約3カ月間滞在、全国のハムと交流した。南は九州、北は仙台を訪問し、当時の朝鮮にまで足を延ばした。ただし、仙台における佐々木さんの動向について触れている資料は見つからなかった。いずれにしても、日米関係はまだ険悪ではなかった時代である。

昭和7年1月に開かれた支部集会には10名のメンバーが参加したが「大阪から菊池、林、山口さんの3人が参加した」と「JARL NEWS」には報告されている。「大阪から3氏が参加」と特別書かれているのは、菊池さんにしてもJ6のコールを取得していなかったためであろう。

昭和14年5月に行われた東北支部のミーティング。上段左より、6EB、6CB、6DC、6CA、6DN、6CD、6DW下段左より、6DJ、6DP、3人おいて、6DQ、6DU

[活気付く東北支部] 

昭和7年(1932年)には有坂さんが盛んに波長5m、7mの研究を東北帝大の宇田教授と始める。この年の6月25日から7月5日までの10日間、仙台公会堂で仙台放送局JOHK主催の「ラジオ展覧会」が開かれた。仙台放送局は札幌、熊本、広島とともに昭和3年に開局していたが、聴視者の拡大のためにラジオ放送や無線通信の現状を紹介するのがねらいであった。

この会場で大きな話題が生まれた。目の不自由な来場者2人が来場。手探りで電信キーとブザーがあるのを知った2人は、実に見事にモールス信号をたたき始めた。周囲の人はびっくりして、しばらく見とれていたという。文字が見れない2人はモールス符号を言葉の代わりに使っていたのかも知れない。展示会は成功したが、現場を見たハムの口から仲間にこの情景が伝わっていった。

この年9月、樺太豊原町で受信局の免許を取得した浅野清基さんが東北支部に入会する。この当時、北海道には9局のハム局と3局の受信局があったが、樺太からの入会は始めてである。東北支部では「東北支部は浅野氏のご加入により樺太まで伸びました。範囲の広さでは日本一でしょう」と、10月のJARL NEWSに書いている。

その浅野さんは同じ号に「当地、鈴谷峠の頂上には10月初めからもう雪が降っています。この冬の夜長を利用して対欧、対米DX受信に使用すべく2基の大アンテナ建設中であります」と報告している。ユーモラスな近況報告も多い。有坂さん「ウルトラ・スウパー・チューパーショウト・タンパおお忙しい忙しい」菱沼さん「ボロ機械アルプスのごとく山積せるのみ」

有坂さんのシャック。J1CVの免許で開局した当時のもの

[有坂さんとの別れ] 

昭和8年(1933年)1月の集会で支部役員の改選が行われ、有坂さんが委員となる。幹事は神山さん、菱沼さん、橋本さんで、菱沼さんが会計担当となる。ところが、有坂さんは翌9年(1934年)、3年間の大学での研究生活を終えて東京に帰ることになる。送別会は2月17日に仙台の「入間」で開かれ7人が参加する。有坂さんは「昨年1月、1年余で仙台を去る私が委員を引き受けるのはどうかと考えましたが、、支部のために努力するのが私の義務と感じ喜んで引きうけました」と挨拶を始めた。

続いて「しかし、公務に忙殺され幹事の方達にすっかりお願いしてしまった。今は私にとって第2の故郷というべきこの仙台を去るに当たって、実に感慨無量であります。また、これが縁になって将来再び東北支部の盟員になることもないとも限らぬように思われてなりません。どうか将来も変わらぬご好意を賜らんことをお願いします」と、別れの言葉を述べた。