有坂さんの後任委員は菱沼さんになった。菱沼さんはニューヨークスタンダード石油に勤務し、後に日電商会に勤めた。昭和9年(1934年)になると有坂さんの報告が「JARL NEWS」に乗っており「学生商売を捨てて、本職の船に乗っているのがいい」と、元気そうな便り。また、2高の講師であった新保さんが兵庫県の姫路高校に転勤する。新保さんは後にJ3FLとなる。

この頃、J6ハムの投稿の多くが、送受信機の改良や、新しいことへの挑戦などであり、戦前ではこの頃がもっとも活発な時期であったように思える。この年、わが国のアマチュア無線局の数は183局。J6局は18局、J7局は11局であった。ちなみに全国183局の内、JARLに加入していたのが163局だった。

JARL秋田県支部は、平成6年(1994年)に「秋田県アマチュア無線史」を発刊した。松本得朗(JA7AO)さんが編集委員長となって苦労して編集したものであるが、これによって秋田県の戦前のハムの姿の一端を知ることができる。秋田県での第1号ハムは道田重雄さんであった。ついで、渡部法宣さんが第2号となった。戦前の東北のハムの活動ぶりを記録したものが見当たらないため、代表して2人の生活を紹介してみる。

秋田県支部が発行した「秋田県アマチュア無線史」

[NHK勤務の道田さん] 

道田さんは秋田市生まれ、市内の旭南小学校から秋田中学へと進み、米沢高工電機科卒業後にNHKに勤務して2年後に免許を取得した。昭和9年2月の地元紙「秋田魁新報」が道田さんの言葉を伝えているが、この頃の雰囲気を伝えておもしろい。「私設無電の利用は国家非常時の場合においては、陸海軍の通信事務に召集されるもので、開設によって受信した事項は・・・1朝有事の場合、軍と連絡し敵行動などを知る上には重要なものであります」

道田さんの使っていた八畳の部屋の書棚は無電関係の本で埋まり、交流式短波受信機、空中線擬似回路、電源、直流式短波受信機などが所狭しと備え付けられていたという。NHKでは秋田放送局長となり、戦後に退職した後にはAKT秋田テレビの役員を務めた。秋田放送局長時代に同じ職場にいた芳賀芳夫(JA7PL)さんは、道田さんから戦前のスケールの大きな話しを聞き、感激したという。

[聴取無線電話私設許可書をもらった渡部さん] 

渡部さんはラジオを聞くことに興味をもち、自宅に逆L型の受信アンテナを設けて電池式のラジオを聞くのを楽しんでいた。当時、放送は夜に行われるケースが多く、昼はほとんど聞けなかったという。このため、昼間に充電池に充電し、夜に放電の日々を送っていた。この連載でも触れたが、この当時には「放送用私設無線電話規則」があり、ラジオ放送を聞くにも許可が必要であった。

したがって、渡部さんは「聴取無線電話私設許可書」をもらっており、細かな許可条件の制約の中で聞いていた。その後当然のことながら、ハムにあこがれ免許を取得した。この当時は近所のラジオに電波干渉を起こしても「無線機を見せてくれ、と大変な騒ぎになった」とむしろ、珍しがられたようだ。戦後は「また、アマチュア無線をやりませんか」という誘いには「時代が変わったから」と答えている。なお、渡部さんはご住職であった。

渡部さんには8歳下の弟、義俊さんがいた。法宣さんのわずか7カ月後に免許を取り、音声の電話局で開局した。この頃はすでに、送信機の発振は自励式から水晶式にかわっていた。秋田県の辺鄙なデータも参考資料も、相談相手も少ない町で、義俊さんはこのむつかしい技術に挑戦していたことになる。

渡部さんが許可された「聴取無線電話私設許可証」

[戦時色強まる] 

昭和8年を境にわが国は戦争を意識する国に変わっていったとの説がある。この年には国際連盟を脱退し、国定教科書も戦争を賛美する内容に変わっていく。実際の日中戦争が始まるのは昭和12年(1937年)であるが、国内の雰囲気はなんとなく“好戦的”へと変化していきつつあった。ハムもその流れに巻き込まれていく。

島貫さんはすでに昭和6年(1931年)に第2師団指令部無線班嘱託となっている。翌7年(1932年)になると国防のためにアマチュア無線局による「国防無線隊」や「愛国無線隊」が発足し、同時に各地で国防演習が実施されるようになる。演習は陸軍の「特別大演習」に無線隊として情報連絡を受け持つ場合と、無線隊のみによる防空演習の2種類が中心であった。

実施地区は主に、関東、関西、東海が多く、防空演習の内容は太平洋沿岸から飛来する敵機を発見し、アマチュア無線網により軍に報告するというものであった。東北支部管内の演習は少なく、また、他のエリアで行われた演習に参加したという記録もない。しかし、東北のハムも時代の流れをひしひしと感じていたらしい。