発電機の表面に霜の付いているのをみて、青木さんは気温は何度ぐらいかと聞いた。「零下10度位で、夜は零下30度から35度位に下がる」と答えが返ってきた。「これでわかった。酷寒のため発電機の残留磁気が喪失して磁界線輪に電流が流れないのである」そこで、夜間寒冷のため発電不能の場合は、自動車バッテリーから電源を取るよう指示したことを「残留磁気喪失」と題して書いている。

[戦時中も活躍した2人のハム] 

戦地に出掛けたハムも国内にとどまったハムも、太平洋戦争を前に通信は禁止され、送受信機に封を張られたハムもある。地域により多少の差はあるものの昭和15年(1940年)頃には免許の延伸(更新)は認められなくなり、昭和16年2月には完全に免許制度は凍結されてしまった。例外は、軍事に関係のある研究所、職場での通信関係の開発に従事する場合や、軍に協力する"諜報"や情報収集に協力する場合であった。

東北では岩動さんと中村さんがその例外のハムであった。岩動さんは昭和11年(1936年)に免許を取得した後、16年(1941年)2月に使用停止命令を受けて、無線局を失効している。しかし、その後北部軍の国防無線隊である「盛岡隊」で活躍するようになり、再びJ6ETとなる。

一方、中村さんが免許を取得したのは戦時中の昭和19(1944)年であった。恐らくは戦前のわが国では最後の免許取得といえる。中村さんは当時、盛岡と岩手山の両測候所の嘱託であり、弘前の師団司令部に送信機を製作して貸与したり、地元の国防無線隊の活動に協力したことから、仙台逓信局担当官から功績が認められて、岩動さんとともに特別に待遇されたという。

中村さんの免許は19年1月14日であるが「岩動さんと2人にコールをくれ、送受信機の所有を認めてくれた」ということから判断し、岩動さんも同日の再免許と思われる。2人は昭和20年(1945年)7月14日と8月9日、釜石市が艦砲射撃により大きな被害を受けた折りにも活躍している。局は実際には19年7月10日に閉局させられたが、引き続き送受信活動をしていたらしい。

岩動さんと中村さんのこの特異なケースは、軍部から「東北地方と常時連絡を取れるように」との要請があったのが理由といわれている。このころの岩動さんを訪ねたのが、東京の柴田俊生(J2OS)さんと香取光世(J2OV)さんであった。東部軍司令部の国防無線隊に参加していた柴田さんは打ち合わせる要務ができて、北部軍の国防無線隊(当時は盛岡隊とも呼ばれていた)を訪ねることになり、香取さんが同行した。

旧日本軍が使用していた通信機「地1」と「地2」など--- 小川(JA7FA)さん所有

昭和20年(1945年)3月10日の東京大空襲の直後であった。柴田さんは「上野駅は東北方面に逃れようとする被災民でごった返していた。列車が果たして目的地に行き着くかどうかもまったく未知数です。岩動さん宅に着いたいたところ、J2IX鈴木千代乃さんがおられてのにまたまた、びっくりです。早速、ミーティング会場となりまして」と思い出を寄せている。鈴木さんは旧姓は杉田さんで、わが国のYL(女性ハム)第1号であった。疎開のために盛岡市近くに転居、その日はたまたま岩動さんを訪ねてきたらしい。

J2IX・千代乃さんと、そのシャック

[岩動さんの思い出]

昭和61年(1986年)の「Rainbow News」に、岩動さんはアマチュア無線についての思いでとして、昭和14年(1939年)8月に、国産飛行機「日本号」(JBACI)が初の太平洋横断飛行の時、6.21MHz、11.11MHzで交信したのをワッチしたこと。また、先に触れた昭和20年の釜石市の戦災の折りに軍通信に参加したこと。そして、昭和46年7月30日に雫石上空で全日空機と自衛機が衝突した時、非常通信を行ったこと、と寄稿している。

岩動さんは医師であり岩動医院を経営していた。戦後は、アマチュア無線のほか、ジープの運転、狩りが趣味で、ジープに無線機、銃を積んで出掛け2、3日帰らないこともあったらしい。また、夫人、6人の子供、看護婦すべてにモールス符号の符号を付け、電話呼出はその符号でおこなっていたという。

[日電電波]

当然のことながら、戦前のハムの職業はさまざまであるが、比較的多いのが自営業の「ラジオ商」公務員の「仙台逓信局」「郵便局」「大学・高校教授・教員・訓導」などである。ここで触れておきたいのは、宇田さんの研究成果を生かした会社が設立され、ハムの二人がかかわりあったことである。

宇田さんと有坂さんは電波通信の開発研究で親しくしていたが、有坂さんから宇田さんが発明した超短波無線電話機の話しを聞いて動いたのが、菊池亀一郎さんであった。実用化できると判断した菊池さんは、日本電池の東北地区販売総代理店に企業化の話しを持ち込む。もちろん、宇田さんの了承を得ての話であるが、その結果、設立されたのが「日電電波」であった。