「日電電波」はその後、日本電池が出資し合資会社「日電電波工業」となったが、電池メーカーでは通信機の製造はむつかしいと判断し、日本電気に相談した結果、同社が経営を引き受けることになり、戦時中は海軍の指定工場として超短波無線機を製造した。菊池さんは当然、この「日電電波工業」に勤務したが、菱沼さんもニューヨークスタンダード石油勤務をやめて、同社に務めている。また、戦後、ハムとなる岩手県の大坂憲造(戦後JA7BJ)さんは、昭和19年(1944年)に、同社に就職している。

[SWL賞 第1号] 

戦後、JARLはいち早くアマチュア無線の再開に動き出した。その活動は東京が中心であり、JARLという組織の他、それぞれかっての戦前のハムが個人的な“つて”を頼って動いた。当時、日本を統治していたGHQ(進駐軍)や、日本政府に陳情する一方、JARLは会員にSWL(短波受信)を奨励するとともに、各地区にクラブの結成を勧めた。

SWL活動は、電波を発射できなければせめて受信だけでもというJARLの苦肉の策でもあった。SWL会員には「SWLナンバー」が発行された。各エリアごとに番号が付与されたが「コールサインをもらったかのようにうれしかった」という会員も少なくなかった。東北の場合は戦前と同様にエリアは6であり、ナンバーは「JAPAN6-10」のようになっていた。

SWL会員は、この「SWLナンバー」を使用して、受信報告を送りQSLカードを送ってもらうようになった。その後、JARLはSWL活動を活発化させるため、6大陸のアマチュア局の受信に対して「HAC」賞を制定した。6大陸との交信に与えられる「WAC」賞を参考にしたものである。実はその第1号は秋田市の川村尚史(JAPAN6-62、後JA7DK)さんであった。

SWL会員が発行したSWL(受信報告)カードの一例。新潟の阿部功(JA0AA)さんのもの

[第1回試験・免許再開] 

昭和22年(1947年)には、東北支部が発足して相川省吾(後JR7JMI)さんが支部長に就任した。また、管内にもクラブが続々と誕生し翌年6月には、JARLに登録されたクラブ数は17となった。各クラブは、免許の方向が決まらないためSWLの情報交換、受信機の製作、モールスの勉強などを目的としたものであった。もちろん、近い将来の再開をにらみ、そのための受験準備をはじめていたクラブもあった。

ようやく再開されたアマチュア無線の第一回試験は、昭和26年(1951年)6月に行われ、全国で1級47名、2級59名が合格。東北では1級2名、2級1名が受験申請し、1級に2名が合格した。翌年7月29日、申請者の内30名に予備免許が与えられたが、この時、JA7のプリフィックスとなった東北6県、JA4となった中国5県には、免許取得者はいなかった。合格したものの開局申請をしなかったのか、申請したが書類が不備であったのかは今ではわからない。

東北に戦後初のハムが誕生したのはその3カ月後であり、福島県の佐藤正世さんが、JA7AAとなった。佐藤さんはその後、南米に移住してしまい国内ではあまり活動しなかったといわれている。第2号は秋田市の三浦恒裕(JA7AB)さんであり、その年の12月4日だった。

戦後東北で初のハムとなった佐藤正世さんのQSLカード

[増加するハム] 

ハムの増加にともない28年8月9日に正式に東北支部が発足し、設立総会が開催された。JARLは電波監理局ごとに支部設置を計画し、その要請に基くものであった。支部長には岩動(JA7DF)さんが就任し、事務所は中村(JA7AY)さんのところに置かれることになった。岩動さん、中村さんともに戦前のハムであり、戦時中にもコールサインをもって活躍していたことは前に触れている。

昭和30年(1955年)のデータによると、この当時のハムの局数は岩手県51局、宮城県40局、秋田県32局、福島県24局、山形県21局、青森県13局、合計181局に達していた。このうち、戦前のハムは9名であった。戦前の免許所持者41名の22%であり、全国でもこの比率はほぼ同率となっている。

[伊勢神宮大宮司になられた二條さん] 

戦前のハムの何人かの戦後の消息を紹介する。二條さんは五摂家の家柄であり、東北帝大時代に免許を取得、卒業後、逓信省電気試験所に就職。その後、当時の東京・北多摩郡神代村にできた神代分室の創設にかかわり、電子管の研究を手掛けた。昭和14年に恭仁子女王(久邇宮の孫で多嘉王の三女)と結婚された。

昭和30年(1955年)に郵政省に移り、電波研究所次長、電波監視長などを歴任したが、51年に伊勢神宮の宮司に就任。その後も時折キーを叩いたらしいが、昭和60年(1985年)8月28日に亡くなられた。東京の大河内正陽(戦前J1FP・J2JJ、戦後JP1BJR)さんは「家紋のついたQSLカードをいただいたと記憶している」という。二條さんは工学博士でもあった。