二條さんが亡くなられた約1カ月前には高山さんが亡くなっている。東京の柴田俊生(戦前J2OS、戦後JA1OS)さんが、高山さんの思い出を書いている。それによると、昭和30年(1955年)前半頃に、高山さんが柴田さんの家を訪ねてきて、バラして組み立てなおした二輪車をどうしても欲しい、といった。

高山さんから二輪車を無心された柴田さんは「私も好きでオーバーホールして組み立てた二輪車ですので、なかなかお譲りする気になれず、頼まれても断りつづけました」という。高山さんも粘りつづけ、半日ほども「頼む」「駄目だ」とやり取りした揚げ句、結局譲った。柴田さんは「家を訪ねて来られたた目的も、どうして執拗に二輪車を求めたかも、値段も忘れてしまった」という。アマチュア無線仲間らしい、遠慮のないやり取りでほほえましい思い出である。

[去り行く戦前のハム] 

戦前、戦後も活躍しつづけた岩動さんも、平成2年9月に亡くなった。次男の孝(JH7OLB)さんが思い出を書いている。「父のハム気違いぶりを認識したのは私が5歳ごろだったと思います。庭に2本の高い柱があり、そのてっぺんが紐でつながっており、ちょうど真中当たりからはしごのようなものが2階のの部屋に引き込まれておりました。冬にはそれに雪玉をぶつけては叱られておりました」と。

さらに思い出は続く「80を過ぎてから父は今度はパケット通信をやるべくコンピューターを買い込みました。80歳以上でコンピューターを買う人は珍しくしかも使いこなす人は稀有だといわれておりました。これも、ハムに対する情熱がゆえと思い、本当に一生の趣味として死ぬまでハムと付き合っておりました」と、父親を偲んでいる。

昭和61年(1986年)の「Rainbow News」には、相川さん、高尾さん、高橋さんもそれぞれ、投稿している。相川さんは,大阪の草間貫吉(JXAX、J3CB、戦後JA3HAM)さんを訪ねたことを書いている。草間さんは、わが国にアマチュア無線免許制度がなかったころから電波を出していた1人である。「とても元気でこれから大阪の会合に行かれるとのことでした」しかし「このごろは目も不自由でちょうどレンズのないカメラのようなものさ、とか。2時間ばかりお話をしました」という内容である。

平成2年度のレインボー会。前列左から3人目が原JARL会長、その右が相川省吾さん

その相川さんは平成11年9月に94歳でなくなった。奥様の竹さんが、ご主人の思い出を記している。「ブラジルにおります娘夫婦が休暇を取って帰るのを待っていたかのようにして、家族で楽しく夕食を済ませた後床に就きましたが、そのまま旅立ちました」と、安らか最後だったようだ。

相川さんは、4、5月ころから記憶がだいぶあやふやになっていた。しかし、竹さんによると「どうしてかアマチュア無線についてはあれこれと覚えておりました。ことに二條様のことは下宿先がお近かったせいでしょうか、よく話しておりました」「交信よりもむしろ機械をいじりまわしている方が多かったようですが、今はもう埃にまみれた部品が残っているだけでございます」と悲しく思い出を寄せている。

[高尾さんと高橋さん] 

高尾さんは「あらゆる老人病を一手に引きうけています」といいながら、50年前からの自作リグを使い、CWでDXを続けていると報告。「外国には現役のOT(高齢者ハム)がたくさんいるので話が合いますが、国内ではハムのムードが全然別のものになってしまったようです。サイレントキーまで細々とやるつもりです」と、感傷的ながらも元気だった。

高橋さんは「もう齢を数えること80回になり、アマチュア歴も50年となりましたが、未だ元気でやっています。近いうちにアンテナを直してお空でご挨拶申します」と寄稿。戦前のハムの集まりである「レインボー会」は、昭和57年(1982年)に正式に発足した。会則を決め、機関誌を発行することにしたのがこの月に開かれた総会であった。「レインボー会」に加入した東北のハムは10名。その人達の消息は機関誌「Rainbow News」によって知ることができる。これまで書きつづけてきた事柄も多くはこの機関誌によっている。

この機関誌で、東北生まれでありながら東京でハムとなった方を見つけた。大正3年(1914年)に、青森県津軽郡で生まれた奥山正さんである。開業医の長男であった奥村さんは幼少のころ父を失っている。静岡市の旧制静岡中学(現静岡高校)を卒業、東京無線通信学校に進学し、昭和9年(1934年)にJ2KNとなる。太平洋戦争中は海軍軍属となりニューギニアに資源調査員として従軍。戦後昭和37年(1962年)にJA1KFNとして再びハム生活を送ることになったが、平成3年9月に没している。

「レインボー会」の会員約180名の内、現在70%強が故人となっている。東北地区の会員の故人となった方の死亡日を記して「戦前のハムの戦後」を終えたい。(敬省略)有坂磐雄(平成4/4/25)高尾與湾(昭和62/9/5)菊池喜充(昭和59/10/31)高山三雄(昭和60/7/18)相川省吾(平成11/9/23)二條弼基(昭和60/8/28)岩動隆一(平成2/9/1)高橋市五郎(平成6/5/8)

草間貫吉さんが作った最初のQSLカード