[宇田研究室で学ぶ] 

再び、山之内さんのハムライフに戻る。山之内さんが昭和33年(1958年)に進学した当時の神奈川大学には、アマチュア無線に関係あるばかりでなく、わが国の電子・電気学界の大御所的な教授がいた。大河内正陽教授や宇田新太郎教授である。大河内さんは昭和7年(1932年)にJ1FPを取得し、戦前は堀口文雄(J5CC)さんとともにわが国ただ2人のDXCCメンバーであった。戦後はアマチュア無線再開に向けて積極的に活躍し、勤務先の東京工大の施設をJARLのために提供したりした。昭和23年(1948年)にJARLの理事長に就任、後にJP1BJRとなった。

2001年11月の「レインボーDX会」に奥様と出席された大河内さん

一方「八木・宇田アンテナ」の開発で知られている宇田さんについては、この連載でも触れているが、別の連載である「北陸のハム達。円間さんとその歴史」に詳しく紹介している。山之内さんは大河内教授から電磁気学を学び、2年生になって初めて宇田教授の存在を知り、無線工学の授業を受け、3年生になると「宇田研究室」に入る。宇田教授は60歳を超えていたが「お元気であり、同時に日本テレビ放送の顧問も兼ねておられた」と、山之内さんはいう。

宇田教授は、長年勤務した東北大学のある仙台からやってきた山之内さんの面倒を何かと見てくれ、また、期待をかけてくれた。研究室ではテレビカメラを造ることが研究テーマとなり、日本テレビからもらった資料を参考に自分で配線図を書き、制作を始めた。わが国でテレビ放送を始めたのは昭和28年(1953年)のNHKであるが、その後順次民間テレビ放送局が誕生、テレビ放送の黎明期に差しかかっていた。しかし、放送用機器は米国製であり、テレビカメラもすべてRCA製であった。

国産化を急ぐ各テレビ局は、大学や電気メーカーに開発を依頼していた時期であり、山之内さんは貴重で、また、楽しい学生時代を過ごすことができた。「宇田研究室には予算がたっぷりあったように思う。秋葉原に出掛けては部品や部材を買いこんできた」と山之内さんは当時を振り返っている。テレビ局に出掛けて実験を行ったりしたが、時にはスタジオでの撮影を手伝い、重いカメラの移動を助けたこともあった。

1974年に東北帝大電気工学科の大正14年卒業生の50周年同窓会が開かれた。前列左が宇田さん

[簡単であった局検査] 

3年の春休みに山之内さんは仙台で2アマの免許を取得したことはすでに触れている。終段管に807を使用した3.5MHz/7MHzの送信機を組み立て「受信機、電源部とともに仙台の電波監理局に持ち込み、検査を受けた。確か、リグにランプを接続し出力が出ていることを確認しただけで合格となった記憶がある」という。アンテナは屋根の上に20mの長さを張った。

「周囲一帯のラジオやテレビに電波障害がないか、それが心配であった」という。合格したからといってすぐに交信することはせず、周囲の家を訪ねて妨害がないかどうかを聞きながら、慎重に送信機の調整を続けた。このため「初交信まで2週間かかってしまった」らしい。初交信の相手は「JA4エリア、中国地区の方であった」という記憶しかない。

神奈川の下宿でも、と山之内さんは終段に42を使った送信機を組み立て、アンテナを張って電波を出した。ところが「1日中“がなった”が、全く応答がないためやめてしまった」という。したがって、仙台に帰省した時だけしか電波を出せず、また、学業も忙しくアマチュア無線に時間を割くことができなかった。

[稼業を継げ、との厳命] 

このころの日本は、疲弊していた戦後の経済から立ち直り「高度成長」が始まりつつあった。また、後に「電子立国・日本」といわれるようになった電子工業もこのころから立ち上がっていった。在学中にはテレビカメラは完成しなかったが、卒業を前にした山之内さんは大手電機メーカーのどこへでも就職できそうな情況にあった。

事実、そのつもりでいた。「好きな電子技術を生かせる職場に行くことに胸が弾んでもいた」当時を語る。華やかなテレビ放送の世界の一端を見、先端電子技術の開発に邁進する大手電機メーカーの研究の場も知っていた。ところが、卒業を前にして父親から「仙台に戻り、家業を継げ」との厳しい話しがあった。

先に触れたように、すでに長男の和彦さんは電子工学研究の道へと進んでしまっていた。和彦さんは後に新技術開発財団から「市村学術賞」を受けるなど、世界の学界でも名を知られるようになった。その当時から父親も和彦さんの才能を生かすことを選んでおり、どうしても次男に事業を後継させるしかなかった。

このころの親子関係は父親の絶対権威がまだ残っており、容易には反対できなかった。山之内さんはやむなく、仙台に戻り呉服商の後を継ぐことになった。商売は父親が元気で取り仕切っていることもあり、山之内さんはアマチュア無線にたっぷりと時間を使うことができた。DX(遠距離通信)に興味のなかった山之内さんは、昭和40年ころから50MHzにのめり込んだ。