50MHz送受信機は仲間の何人かと自作し、それぞれトラックや乗用車に乗せて交信した。このころは50MHz帯はまだ空いており、自由に交信ができた。その後、50MHzの仲間が増えたため、ほどなくしてSMHC(仙台モービル・ハム・クラブ)を発足させた。昭和42(1967)年ころからは、144MHzに移ろうということになり、同様に各自が自作したりした。

[東北支部から東北地方本部に] 

山之内さんが50MHz/144MHzのモービルを盛んに運用しているころ、東北のアマチュア無線組織も充実していった。すでに、昭和28年(1953年)にはJARL支部の総会が開かれていたが、山之内さんはまだ中学生でありラジオには興味をもってはいたものの、JARLの組織とは接触がなかった。

戦後再開されたJARLは、全国の10エリア単位に支部を設け、やがて、各県には県連絡事務所を置き、それぞれのハムの自宅を「県連事務所」とした。各エリアの支部を地方本部に改称し各県に支部を設け、現在の体制となったのは昭和47年(1972年)であった。初代の本部長には野口光男(JA7HC)さんが就任した。

この間、昭和32年(1957年)の6月1日には電波の日を記念して「電波の日東北管内QSOパーティ]が開催され、このパーティは翌年から「オール東北コンテスト」に改められて続けられた。翌33年(1958年)には、東北支部局JA7RL局が開設され同時に「ONE DAY JA7賞」が制定されている。

ハムの増加にともない、このように東北のアマチュア無線の活動も活発になってきた。昭和42年(1967年)には、先に触れたように6県に「県連事務所」が置かれ、それぞれの県の評議員が事務所長に就任した。各事務所長を記しておく。青森=JA7DZ、秋田=JA7DW、岩手=JA7AK、山形=JA7CL、宮城=JA7OP、福島=JA7BTであった。

翌昭和43年(1968年)には、仙台市の市丸光デパートでSSB(シングル・サイド・バンド)の普及を目指した公開実験が行われた。SSBは昭和35年(1960年)ころからそれまでのAMに代わって出まわり始めた。支部局のJA7RLもSSBになったことを記念してのイベントであった。このころは、物珍しいアマチュア無線に子供達も大人も興味をもち、大盛況であった。

昭和31年東北支部総会が秋田市で開かれた。会場となった日米文化会館前での参加者---「秋田県アマチュア無線史」より

[養成課程講習会の開催]

SMHCの活動を通じて、山之内さんの活躍ぶりは周囲に知られるようになった。JARL東北支部組織では役職には就いていなかったが、アマチュア無線の普及活動も始めていた。仲間同士で楽しんでいた50MHz機の送受信機は、アマチュア無線機メーカーが製品として販売を始めていたため「われわれのグループはアマチュア無線の普及を図るため、大量に仕入れ車に積み、仕入れ値で各地を回って販売したこともあった」と、山之内さんは40年近くも前のことを振り返っている。

昭和40年(1965年)6月、電波法の一部が改正され「養成課程講習会」制度が発足した。それまでは「無線従事者国家試験及び免許規則」に基き、免許取得のためには試験を受ける必要があった。「養成課程講習会」は、一定の時間、講習を受け、その終了試験に合格することにより免許が取得できるという画期的な制度であった。

この講習会制度の発足は、増加する受験者数に電波監理局の手が足りなくなったことも原因であった。このころにはアマチュア無線技士の受験者数は全国で年間1万人にほどの人数に達していた。試験会場、監督官の確保が大きな問題となった。しかも、受験者数は毎年増加する方向にあるため、従来の試験制度はやがて破綻するのではと危惧されていた。

「養成課程講習会」は、JARLが代行して行うことになっていたが、実際に実施されたのは昭和41年(1966年)になってからである。テキスト、講師の準備に時間がかかったからであり、この年の3月13日に東京都児童会館、群馬県伊勢崎高校で最初の講習会が行われた。その後、各地で開催され、この年の年間受講者は約6600名に達した。

山之内さんは昭和48年(1973年)ころからJARLの活動に参加、50年(1975年)ころからは、講習会の講師になるなどの活躍をした。このような活動が評価され、周囲もほうっておかなくなり、昭和63年(1988年)にはJARL宮城県支部長に就任する。

昭和35年、秋田の藤田(JA7ARZ)さんはSSBで交信を始めた 秋田県アマチュア無線史より

[東北地方本部長就任]

この63年3月末のアマチュア無線の局数は、全国で82万5千局、東北では7万2千局に達していた。このうち、JARL会員は全国で15万人であり、東北では1万2900人、宮城県の会員は2,826名であった。山之内さんは宮城県支部長を3期6年務めた後、平成6年(1994年)には東北地方本部長となる。アマチュア無線局数ははこのころがピークであり、東北のJARL会員は1万6400人に達していた。