山之内さんが本部長に就任したころには、仙台市青葉区大町にある立町ビル内に東北地方事務局があった。JARLは増加する会員対策として、地方本部単位の事務局設置を進めることになった。昭和41年(1966年)に東海地方本部が全国に先駆け、名古屋市中村区広小路に東海地方事務局を設置したのをかわきりに各地方本部が事務局を設けた。東北の最初の事務局は昭和43年(1968年)に仙台市の東北電波管理局内に設置されたが、全国で2番目の早さだった。

事務局専従職員は最初の1名から2名となり、さらに「養成課程講習会」の講師など6名の非常勤職員が加わり、それでも多忙だった。事務局開局にともない、これまで野口さんの所に置かれていた東北地方局JA7RLの設備が事務局に移された。この地方局の開設は昭和33年(1958年)と早かった。ついでに触れると補助局JA7YRLが昭和55年(1980年)に移動局として免許されている。現在ではこれらの地方局は、東北管内をイベントのたびに移動している。

東北地方本部事務局にあった本部局。中央が山之内本部長

[本部長・山之内さんの活躍] 

本部長に就任した翌平成7年(1995年)5月28日に、弘前市の弘前市民会館で第37回の「JARL通常総会」が開催された。東北での通常総会は昭和39年(1964年)の仙台市、52年(1977年)の天童市、61年(1986年)の福島市に次いで4回目であった。山之内さんにとっては初めて手掛ける大イベントであった。

第37回JARL通常総会「アップル総会」でのパンフレット

りんごの産地にちなみ「アップル大会」と名付けられたこの大会冒頭で、山内さんは挨拶に立ち「三陸はるか沖地震および阪神・淡路大震災で被災された皆様に心よりお見舞い申しあげます」と述べて、大会をスタートさせた。「三陸はるか沖地震」は、この前年におき、また「阪神・淡路大震災」は、この年の1月に発生したものであった。

引き続き山之内さんは、挨拶のなかで「本年は戦後アマチュア無線が再開されてから44年目になり、アマチュア無線家は135万人にもなりますが、多くのアマチュア局の活躍、発展するための意見表明が活発に行われ、意義のある大会にしていきたいと願っております」と述べた。総会出席会員は約1500名、活発な質疑が交わされた結果、討議案は原案通りに承認され山之内さんはほっとした。

[東北の立地] 

「平成8年ごろだったと思う」と山之内さんは記憶を手繰りながら「ハムフェア」の開催企画があったことを話してくれた。アマチュア無線局の数はピークに達していたころである。アマチュア無線熱の高まりは続いていた。この年、東北地方本部として仙台市で「ハムフェア」の企画が生まれた。会場の手配、出品企業、出品クラブ局の打診が始まった。

しかし、実現は難しかった。全国各地で始まった「ハムフェア」に、出品予定企業がその多さに音をあげてしまったのが理由の一つであった。大阪や名古屋はアマチュア無線局も多く、経済産業でも東京に対する対抗心もあり、イベントが成り立つ。一方、九州や北海道は遠隔地であるが故に独立してのイベントが必要となる。東北はその点で、他の地区との違いがある。山之内さんも「東北は地域によっては東北での開催、東京での開催ともに出かけるのに距離が変わらない、という難しさがある」と指摘する。

とはいうものの、東北各支部や各クラブ局ではさまざまな活動が続けられている。アマチュア無線活性化のために、小学生を対象にした「半田ごて教室」を開催している地区もあり、地域のアマチュア無線クラブで、子供達にアマチュア無線の楽しさを教えているハムもいる。災害に対応して非常通信で活躍したケースもある。

[非常通信] 

東北の主な非常通信実施を上げてみる。昭和35年(1960年)5月24日のチリ地震津波では、当時の東北支部局JA7RLを宮城県の志津川町に持ちこんだ。太平洋を挟んだチリの沿岸部で起きた地震は津波を発生させたが、約23時間で日本の太平洋岸に達した。もっとも早い第1波が達したのは宮城県の女川町江の島だったといわれている。三陸海岸一体の被害が大きかった。夜中の午前2時ごろであったため「寝込み」を襲われた形となり、東北全体で死者107名、行方不明者15名、負傷者791名の記録がある。

昭和42年(1967年)8月28日の豪雨で孤立した山形県小国町に通信機材を空輸したことがある。この水害は「羽越水害」と呼ばれ、山形県と新潟県の県境一帯が襲われた。3日間の雨量が700mmにも達し、円川村、神林村、荒川町の被害が大きかったが、なかでも小国町は完全に孤立してしまい、通信手段もなくなっていた。

昭和51年(1976年)10月29日の山形県酒田市の大火でも活躍した。映画館グリーンハイツから出火し、1774棟、15万2千平米を焼き尽くした。罹災世帯1023世帯、3301名だったが、奇跡的に死者は1名で済んだ。この時には20局以上のハムが非常通信を行ない活躍、後に消防庁長官賞、山形県知事賞を酒田クラブが受賞している。