[地方博ばやり] 

昭和60年(1985年)代になると、活発に記念局を開設する。この年、ニューヨーク市内のプラザホテルで開かれた「5カ国蔵相会議」で、日本は内需拡大を要請され、その結果バブル経済に突入していった。各地で競うように博覧会が企画され実施されていった。同時に、戦後の「団塊第2世代」のアマチュア無線開局もこのバブル期後半になって増加し、JARLも活発な活動を続けていた。

東北では昭和62年(1987年)に仙台で「未来の東北博」翌年は青森市で「青函トンネル開通記念博覧会」平成3年(1991年)には、仙台で「91’インテリジェントフェア イン 仙台」が、さら翌年に岩手県で「三陸・海の博覧会」が開催された。JARL東北地方本部はこれらの博覧会に記念局を開局している。このうち「青函博」では約22000局との交信を達成している。

「三陸・海の博覧会」記念局で発行されたアワード

[日本初の160m WAC] 

戦後の東北のアマチュア無線の歴史には、全国に誇れる活動がいくつかあるが、その中で世界初の6バンドでのWAC達成を紹介しよう。WACは6大陸との交信達成のアワードであるが、その一つに6バンドすべてでWAC達成の賞がある。ただし、条件は6バンド各6大陸達成を同時に申請することはできず、5バンドWAC達成者が、残るバンドでの達成を申請する形で無ければならなかった。しかも、交信は1974年以降であることが条件であった。

昭和49年(1974年)の12月初めの時点で、東北では松本得朗(JA7AO)さんと富樫国和(JA7NI)さんの2人が160mでアフリカとの交信のみを残していた。2人は同じ秋田県の良い意味でのライバルであった。WACで難しいバンドは160mであるが、実は松本さんはこの年の2月27日にわが国で始めての160mWACをすでに達成していた。

この時は、松本さんと大阪の島伊三治(JA3AA)さん、前橋の真中二郎(JA1MCU)さんの3人による激しい競争になっていた。前年の夏ころ、松本さんは比較的やさしいといわれるヨーロッパを残し、島さんと真中さんは難しい南米を残していた。結局、松本さんが12月1日にドイツとの交信に成功し、160mWAC第1号となった。日本中のハムを興奮させたこの時の様子は、別の連載「関西のハム達。島さんとその歴史」に詳しく書かれている。

[世界初の6バンド WAC] 

160mでのWACの制定が発表されたのは、その後であり、しかも、1974年以降の交信が条件。松本さん、富樫さんは1月中に南米を済ませており、残る4大陸に兆戦し始めたが、最後のアフリカとの交信は2人ともに12月8日の朝、スーダンのST2AYとであった。これで「6バンドWAC」は完成したが、松本さんは急いで申請もしなかった。

松本さんによると「世界的なアワードが制定されると常に米国のハムが最初の取得者になってしまう。6バンドWACも米国に最初の達成者がいるだろう、と考えてゆっくりとしていた。」それでも、QSLカードが揃ったのを機にとりあえず5バンドWACを申請、IARU(国際アマチュア無線連合)から届いた賞は昭和50年(1975年)7月16日であった。

160mでのカードは、9月半ばに届いたアルゼンチンを最後にすべて届いた。松本さんはすぐにJARLに申請したが、10月の初めにJARLから電話があり「あなたの6バンドWACが世界最初」と言われた。ほどなくして届いたIARUの賞状は10月2日付けであった。松本さんは「期待もしていなかったのでびっくりした」という。

[山之内さんのJARL活動] 

現在、山之内さんは仙台市の繁華街にある自社ビル3階の1部を東北地方部のために提供しており、ここに地方本部局も置かれている。また、会議の場にも活用している。一方、JARL本部では「企画ワーキンググループ」に所属し、JARLのあるべき姿を目指す活動を続けてきた。これまで、QSLカードの転送システムを改革し、スピードアップを図るなどのほか、会員制度の見なおしを検討してきた。

山之内さんは「JARLに対して会員からいろいろな意見、要望がある。それを取り入れてやってきたが、さまざまな意味で限界もあるのは事実」と言う。そして、現在の最大の課題が「若い人達の加入を図り、若い意見を反映させる組織にする必要があること」という。

さして、個人的には「アマチュア無線を通じていろいろな体験ができた。若いころ、車にモービルを積んで東京まで何度も出かけた。その道々、親切なハムの皆さんに大変お世話になった。そういう暖かなハムの時代をもう一度」との夢を抱いている。