[MARL結成の裏話]

田母上さんのねらいは、QSLカードの発送を政府にやってもらおうとの魂胆であった。ところが、意外にも外交院はそれも承認してしまう。その晩は新京在住のメンバーは田母上さんの家に集まり、翌朝の4時頃まで祝杯を上げ続けたという。この年の10月、IRAUの代表としてARRL(米国アマチュア無線連盟)のスワナーさんが満州を訪問、各局を訪ねた結果、MARLの加盟が認められた。

「Rainbow News」の第5号で田母上さんは、その裏話を書いている。田母上さんが中心となって動いたのは「ハムの許可を受けている人は軍人またはその関係者であり、それ以外の人も職業上いずれかの官庁に直接関係している者だけだから、いずれにも関係ない君に相談したんだ」と、当時、関東軍(満州を守備していた日本軍隊)通信担当参謀の小澤さんにいわれたからであった。

また、MARL発足に当たっては、さらに先進的な条件が加えられていたこともわかった。いくつかあげると【1】第3者依頼の電文も送受できる【2】移動運用は自由とする【3】許可期限は5年間とする【4】許可を受けえるものはMARLの行なう試験に合格した者、日本政府より実験局の許可をえた者。いずれも、当時の日本国内ではなかった条件であった。

MARL会長であった小澤さん(昭和8年当時)

[新彊省・タクメンからの電波]

田母上さんらは通信実験旅行に外蒙古、新彊省に向う。護衛のための兵士39人を含む45人は、15台のトラックで出発。毎日、定時に新京と東京との交信を続けながら10日目には外蒙古のラナバールに到着。「この辺からアマチュア無線を出したら、皆びっくりするだろう」と田母上さんは考えた。しかし「外蒙古はMX4エリアでありおもしろくない。100Kmほど行って新彊省から出してみたい」と、成田安一(MX2D)隊長に相談する。

成田隊長も「それはおもしろいが、コールはどうする」といわれる。田母上さんは上海のAC8JKに相談すると「新彊もチベットもAC4のコールエリアであるが、AC4の後のサフィックスはどうする」聞かれる。田母上さんは「田母上」のTと日本を代表する「富士」のFをとりTFとすることにしてAC8JKに了承してもらう。

新彊省のタクメンという町で14MHzでCQを出すと、真っ先に鹿児島の堀口文雄(J5CC)さんが呼んできたという。堀口さんは戦前に世界で3人しか達成者がいないWAZ(ワールド・オール・ゾーン)の一人であり、WAZで最後まで残っていたチベットと交信したのは、東大卒業の年、昭和14年(1939年)3月26日であった。

しかも、相手はチベットでただ1局しかない英国人のフォックスさんの雲南省混明の局であった。同エリアでありながら田母上さんとの交信はそれより半年は早かったはずであるが、どういうわけか堀口さんはカウントしなかった。当時は、かってに他国に入って交信することはアンカバーであり、堀口さんはそれを交信として申請することを潔しとしなかったからかもしれない。

いずれにしても、田母上さんはタクメンに10日間滞在し、168局と交信。帰途にも外蒙古の土地でAC4TFのコールサインで206局と交信したという。田母上さんは、満州に昭和16年(1941年)10月まで住み、15年度、16年度の2年間ARRLのワールドコンテストで東洋地区での優勝を果たしている。このため、ARRLの永久会員に加えられ、ARRLが発行している雑誌QSTの無料購読の特典をもらっている。日本では堀口さんと2人だけであった。

昭和15年のコンテストではXU1U局と同点であったが、終了時間が田母上さんがわずか2分だけ早かった。満州在住中は、MX3Hのコールサイン、14MHzで交信回数28,318、局数19,629局の記録を作る。時には水冷管のSN201を使用し、入力3KWを入れて送信した。シャックは研究所の2階にあったが、運用を開始すると部屋の電灯が薄紫色に輝くため、研究をさぼって2階で運用するわけにはいかなかった。

戦前の満州国のエリア区分

その田母上さんは戦後もアマチュア無線のために、JARLの再建や再開活動で活躍する。同じように戦前、戦後とDXに力を入れてきた大河内正陽(J1FP)さんは「戦前はJ5CC・堀口さんの後塵を拝し、また、戦後はJA1ATF・田母上さんの後塵を拝してきました」と、田母上さんの活躍ぶりに脱帽している。

ちなみに、田母上さんが戦前、戦後に獲得したアワードはMIX-WAS、MIX-WAZ、14-CW-WAZ、AAA、DUF、WAE、WAPであり、DXCCは315カントリーを達成していた。