[再開直後の北海道]

27年7月29日、全国で30名に予備免許が与えられ、各エリアでAAが誕生した。北海道では浜さん、石田さんの二人が、ともに波長20m、10m、出力10Wで許可された。当時は、送受信機の工事落成届を出し、検査に合格してから本免許となるが、それまでは電波の発射は禁止されていた。仮に試験のための発射を希望する場合は試験電波発射届を提出する必要があった。

JA8AAを取得した浜さんは、戦後すぐに駐留軍(日本に進駐してきていた国連軍)家族に貸与されていた短波受信機を手に入れ、スプレッドやBFOを付加してハム用受信機に改造して受信し、JARLのSWL会員ナンバーはJ7-62であった。

一方の石田さんは戦時中に北大医学部を卒業し、海軍委託生として出陣した経歴をもつ。戦後は北大医学部の講師となり、学会などの用事で上京の時には秋葉原に寄り、仲間に貴重な無線機器部品を運んできたりしたという。その後は東京に移り、東京厚生病院に勤務し、コールサインもJA1KFに変った。昭和30年代の初期から半ばまでは石田さんは北海道で、また、石田さんは東京でJARL理事として活躍した。

[JA8AA・浜さんの開局]

浜さんは中学生の時に無線にあこがれた「ラジオ少年」であり、「札幌クラブ」が設立された昭和25年当時、まだ21歳であり、通信関係の企業に勤務していた。若かったが、その人柄と卓越した無線通信の技術力からリーダーの一人になっていた。開局までに8万円を投じて送受信を自作した。

浜さんら第1級合格者は、当初出力20W~30Wで申請したが、10Wを超える局は周測計が必要と本省からいわれ、全員が10Wに変更することになった。浜さんは本省まで訂正に出掛けたが、他の人は再度、申請書を書き直して郵送している。この結果、JA8AA以下のコールサインが決まったといえる。

浜さんは昭和28年(1953年)にJARL北海道支部が発足した時に初代の支部長に就任。しかし、昭和54年12月15日に50歳でサイレントキーとなった。ハム活動の歴史を記す間がない早逝のためか、浜さん自身による記録はほとんどない。開局時の様子もわからない。

ただ、予備免許を受けた後、本免許までの期間、試験電波発射の様子は、同時に免許を受けた大阪の島伊三治(JA3AA)がさん覚えている。交信が禁じられているこの期間に、お互いが試験電波を出してお互いに届いていることを確認しあったという。詳しくは別の連載「関西のハム達。島さんとその歴史」に書かれている。

浜さんは50歳でサイレントキーとなった。晩年の浜さん

島さんにとっては、浜さんの試験電波が日本のアマチュア局を聞いた最初であった。島さんが本免許を取得して初交信をしたのはこの年の8月27日。9月5日に浜さんとの正式な交信に成功している。同じAAのサーフィックスでもあり、島さんは「思い出に残る人であり、今でも記憶に鮮やか」という。

[浜さんの活躍]

やや遅れて開局した千葉さんは、いろいろな機会に北海道の戦後の歴史を知る材料を提供してくれており、浜さんについてもしばしば書いている。千葉さんも「札幌クラブ」の役員として活躍、北海道学芸大付属中学の理科担当の教師の時に免許を取得した。浜さんとともに北海道のアマチュア無線の普及に務め、若いハム志望者の面倒を良くみた。無線を通じての理科教育にも熱心であり、JARLの養成課程講習が始まると、講師として道内を走り回った。

その千葉さんの書かれた「浜さんの思い出」から、もう少し浜さんを浮き彫りにしてみたい。札幌・真駒内に進駐軍として在住していたアメリカ人ハムのK8TBさんと、浜さん、千葉さん、高橋さん、三俣沙詩也(JA8AQ)さんらは友達になり、しばしば訪ねていた。当時の北海道では唯一の欧米のアマチュア無線を知る窓口でもあった。

千葉さんはそこで初めて八木アンテナを知り、その性能の良さに驚嘆する。ほどなくして、浜さんの自宅に自作の3エレメントの八木アンテナが建てられた。しかも、シャック内からアンテナの回転ができるように手動のクランクまで開発されていたという。また、この頃から浜さんは軽自動車内にリグを積み自作のDC-DCコンバーターで駆動させ、ホイップアンテナで米国とも交信したこともある。

昭和27年。千葉さんの無線従事者免許証

昭和31年(1956年)、浜さんは米国・ロサンゼルスのテレビ局から招待を受けて渡米する。それ以前、浜さんはロサンゼルス近郊のYLクラブ員と交信し、手作りのアワードを贈られるなどクラブとの交流が深まっていた。その後、テレビ局がYL局を取材した折りに「心に残ったことは、日本のJA8AAとの交信」と答えたことから、テレビ局は番組での対面を企画した。