テレビ番組の構成はおもしろかったらしい。テレビ局はYLクラブに知らせずに浜さんを招待し、当日は別室に待機させ、YL局にはスタジオに持ち込んだリグを使い、日本に居ると信じているJA8AA・浜さんをコールし交信してもらうように依頼してあった。ところが、コールすると、本物の浜さんが別室から紙製の壁を破って現れたため、YL達はびっくりしたという。

浜さんは、米国滞在中に、現地のハム仲間に招かれて歓迎パーティに出席するなど交流を深めたが、「なぜSSBに出ないのか」といわれ、SSBエキサイターを入手して帰国、SSBにも挑戦した。浜さんは短い生涯ながら約4万枚のQSLカードを集めた。このため「読売1万局アワード」では最初の受賞者にもなった。

原さんは最初に奉職した大成町立太田小学校時代に「太田小中学校アマチュア無線クラブ顧問」となり、昭和46年(1971年)にクラブ局JA8YIMを発足させた。しかし、子供達が電波を出しても、子供と話しが合わないと考えてか応答がなく困ることが多かった。それを「みかねて(聞きかねて?)JA8AA浜さんが声をかけて下さいました」と原さんはいう。

千葉さんは浜さんの信条を紹介しているが、同時にその信条は千葉さんの思いでもあった。信条とは「自分の現在の技量と環境に見合うところで全力投球し、その上に新たな課題を設定しハムライフを続けると、今日も明日も楽しい」というものであった。

平成3年、千葉さんは「電波功労表彰」を受賞。その記念祝賀会が開かれた。右端が原さん、次いで千葉さん

また、谷本健一(JA8OW)さんは「浜さんは近くの局であろうと、はるか遠い南米ペルーやエクアドルの局、アフリカの珍しい国であろうと、変わりなくQSOされた。国内の局をさげすんだり、嫌うことはまったくなかった。呼ばれれば時間の許す限りQSOされ、丁寧なQSLカードがかならず送り届けられた」と敬意をもった文章を残している。

[橋本さん、千葉さんの思い出]

浜さんが米国に招待されていた頃、原さんはまだ小学生であった。原さんがハムになったのは昭和36年(1961年)9月であり、千葉さんとの交流はその後である。とくに原さんが教職についた後は同じ職業ということもあり、自宅を訪問することも多かった。「千葉先生はお訪ねすると、必ず食事を用意されるので恐縮することが多かった」という。

千葉さんは、勤務した学校にアマチュア無線クラブを発足させたり、ハム志望者を丁寧に指導された。飯田秀三郎(JA8VV)さんは、千葉さんについて「JARL養成課程講習会制度ができた後は、あちこちで講師を務めるなど活躍された。トラブルに直面した時の素早く行動する責任感の旺盛さや心の奥深さを知らされ、大先輩というよりも師と思っての付き合いとなった」と思い出を語っている。

千葉さんにまつわる話しとしては「千葉水晶」「千葉トランス」という言葉がある。千葉さんの“すりあげた”水晶片、巻き上げた変調トランス、電源トランスは貴重なものであったからである。多くのハムがその世話になって、開局にこぎつけている。しかも、明るい性格であり、話術も巧みであったため「入場料を払っても聞きたい」というハム志望者も多かった。

昭和34年(1959年)7月、北海道では始めての航空機による移動運用が行なわれた。飯田さんが機報部長を務めていた読売新聞社北海道支局の協力で、読売機を使用、浜さん、千葉さん、高橋文雄(JA8AI)さん、飯田さんが乗り組んだ。座席下の穴から重りをつけた20mのワイヤーをアンテナとして垂らして実施したが、全道はもちろん、東北方面とも明瞭に交信できたという。

一方、戦前のハムである橋本さんと原さんとの接点はあまりなかったようだ。その橋本さんは、戦後もリピーター(中継機)設営で活躍し、また「OMネット」を主宰されたが、昭和59年7月17日にサイレントキーとなった。橋本さんは明治35年4月生まれ、戦前の北海道のアマチュア無線の育ての親でもあり、戦後はNHKに勤務し、旭川放送局長となったりした。表面には立たなかったもののハム志望者に講演を行なったり後輩の面倒をみられた。

ある時、何人かのハムが橋本さん宅を訪ね、話題が盛りあがったまま食事時になった。奥さんを亡くされていた橋本さんは、トースターでパンを焼こうとしたが、故障していて焼くことができなかった。「無線機に比較したら簡単なもの」と、ハム仲間が修理に取り組んだが直すことができなかった。橋本さんの誕生日にトースターをプレゼントすることになり、原さんにも呼びかけがあり、仲間に加わったことがあった。「橋本さんについては、交流を始めて間もなくして亡くなられたので、教えをいただく機会が少なく残念でした」と原さんはいう。

ハム仲間にプレゼントされたトースターを前にした橋本さん