澁谷さんはやはり文京区の池田裕治(JA1CJ)さんを訪ねていた。藤山さんが呼びかけてから1時間強で連絡が取れたといい、この模様は「役立った“友愛の短波リレー”」の見出しで朝日新聞に紹介された。しかし、連絡の取れた時、澁谷さんに知らされたのは「愛嬢の死」であった。その後、澁谷さんは東京に移り、JA1NAEとなり、戦前、戦後の活躍で知られる矢木太郎(JH1WIX)さんとも親しくなった。

[赴任先はへき地の小規模校]

再び、原さんに戻る。原さんが高校時代、大学時代ともにアマチュア無線にのめりこんでいたことはすでに触れた。このため、電子部品をしばしば購入した函館のハリマ無線には大学卒業時に最高10万円の借金があった。当時は大卒の初任給が2万円程度の時代である。卒業後、原さんは2年かかって返し終わるが「今でもよく学生にそれほどの大金を貸してくれたものだと、感謝しています」という。

大学時代の思い出の一つにSSB送信機作製がある。原さんがSSBの信号を聞いたのが昭和36年の開局後間もなくであった。「モガモガという変な電波を発見し、しばらくしてからSSBの信号と知りました」という。原さんは、そのモガモガ送受信機づくりに挑戦する。理論から勉強してようやく完成したのは昭和40年。すでに大学生になっていた。

原さんは昭和42年(1967年)に北海道教育大を卒業し、4月に檜山支庁管内の大成町立太田小中学校に赴任することが決まった。全校生徒は60名、教える教師は校長以下5名。いわゆる辺地校であるが、原さん自身が希望したものであった。原さんは「父が辺地の教員をしていて、1学年が10人以下の学校で勉強し、途中で1学年500人もいる学校に転校した体験があるが、生徒の多い学校になじめなかった」思いをもっていた。そのこともあって就職面接では「離島、辺地をお願します」と希望を伝えていた。

希望通り、辺地となったものの「勤務先の通知を受けたが、大成町がどこにあるかも知らなかった。ある先輩ハムのお兄さんが偶然にも数年前まで、太田小中学校に勤務しておられ様子がわかった。ガス、水道はもちろん電気も送電されていない、交通手段は陸地伝いは無理であり船で行くという。」覚悟はしていたが、「電気が使えないということには大きなショックを受けた。」という。

太田小中学校の校舎 --- 急な山の斜面に立てられていた

原さんは挨拶がてら、赴任先に電話する。応対に出られたのは校長先生であり「最近、道路も開通し車で来れます。電気もくるようになりました。私は異動で他の学校に転勤ですが、ここはいい所です。楽しみにして来てください」といわれた。電気があるということで、原さんは「これで私の心配はなくなった」と、胸を撫で下ろしたという。

[原先生の誕生]

原さんの教師生活が始まった。宿舎は学校近くの官舎である。原さんにとって、太田小中学校の思い出は深い。単に、最初の赴任学校だからではなく、生徒との触れ合い、地域社会との交流など人口200人ほどの小地域ならではの思い出である。また、ここで野口哲平校長先生から厳しくも暖かい指導を受けての「教師スタートが後におおいに役立った」という。

原さんはご自身のホームページを持ち、これまでの人生や、日頃の思いを公開している。そのホームページでは、人生の転機になった「やがて肝移植に至る肝臓病との戦い」、趣味である「アマチュア無線人生」、ボランティア活動「ユニセフ活動」、特殊教育を実践した「教育関連」などその記録量は膨大である。

原さんのホームページ表紙

これからは、原さんのアマチュア無線人生を書き連ねていくことになるが、その面ではそのホームページに記された“自分史”は最大の参考資料になる。しかし、その膨大な“歩んできた道”の万分の1も紹介し切れないことに逆に悩まされている。原さんの生き方は単なるアマチュア無線家としての人生でないからである。

確かに原さんはアマチュア無線を通して生徒を指導し、また、社会に貢献もしてきたが、この“アマチュア無線による貢献”をそっくり取ってしまっても、つまり他の分野でも大きな貢献をしてきたし、現に貢献しつつある。この連載の主軸はアマチュア無線ではあるが、アマチュア無線以外の貢献活動にも触れていきたい。

辺地の教育に携わることになった原さんは、野口校長先生から「思いきって何でもやりなさい。やったことは記録に残し、発表しなさい」といわれる。受け持ちは小学校4年生から6年生までの15名、そして中学1年生から3年生までの英語ももつことになった。複数学年を受け持つことを復複式授業というが、同時に同じ教科の教科書3冊を使っての教育だけに大変な労力だったという。

初任地で原さんを優しく指導された野口校長もハムになった

しかし、原さんは「私自身が小人数の辺地の生徒であった体験が生かされ、どうしたら良いかが徐々にわかってきた」とその当時を回顧する。花壇づくり、池づくりから始まり、冬場の生徒の遊び場として校庭にアイススケートリンクを作り上げる。零下7度程度になる土地ではあるが、深夜に水を撒くなど素人がリンクを作るのは大変な苦労がともなった。