この2度目のバンコクで原さんは、信じられないタイ人の人の良さを経験する。3年前に親しかったハムで銀行員のキテーさんに電話し「久しぶり。食事でも」というと「今日は帰りが遅くなるので、先に友達をホテルまで迎えに行かせるから、タイビールでも飲んでいて」と、ありがたい旧友の言葉。

2人の女性とともに、友人らしき人がホテルに迎えに来てくれ、中国レストランに案内される。友人は気をつかっていろいろ話しかけてくれ、原さんも100語程度しか知らないタイ語で会話。2時間ほど遅れてやってきたのは原さんの友人とは別のキテーさんだった。聞くと「ああ、無線をやっていたキテーさんね、転勤したよ」という。その後、原さんは見知らぬキテーさんと「やけ酒」を飲み別れたが「心配していた勘定は、すべてキテーさんが払ってくれた」という。

同行した谷本さんについてわずかばかり触れると、戦後間もなくして鉱石ラジオで近くに住んでいた渋谷(JA8AE)さんの交信(BCI)を聞き、NHKやHBCラジオ放送よりおもしろいと、たびたび聞いていた。中学生時代にはワイヤレスマイクを作り、数百メートル離れた友達とQSOのまねごとをしていた、という。

開局は昭和34年(1959年)。アマチュア無線の試験が札幌でしか受けられなかったため、33年に函館で電話級通信士の資格を得た。この年にプロの資格でもアマチュア無線の開局ができる電波法の改正があり、翌年に開局したことになる。当時は自作の時代であり、落成検査での苦労、波長維持の苦しみ、数百回目でコールでの欧州とのコンタクト成功などを「ハムフェア記念誌」に寄稿している。

タイに同行した谷本さんとそのシャック

[特殊学校への赴任]

昭和57年(1982年)、原さんは八雲町の八雲養護学校に赴任し「養護学校教員1年生」として、中学部3年A組の6名を担任する。昭和54年(1979年)、当時の文部省は、障害をもつすべての子供がいずれかの学校に籍を置く制度をスタートさせた。それにともない従来の「就学猶予」が認められなくなった年であった。原さんは学生時代から障害児教育に関心をもち、障害児教育を学び「養護学校教諭」の資格を取得していた。

北海道でも、各種の特殊学校が開校することを知り、江差小学校時代に何度も転出希望を提出、その結果の八雲養護学校赴任であった。原さんは養護学校赴任にともない「特殊教育のオーソリティになりたい」と考えた。「特殊学校には盲学校、聾学校、知的障害、肢体不自由、病弱虚弱の5校種に分かれていて、それぞれ専門性が要求される。早く、この5校種を経験して特殊教育に精通したいと考えた」という。

八雲養成学校では、障害を持った生徒が積極的に電気工作の授業に取り組んだ

[国際交流教育とIT教育]

八雲養護学校は、筋ジストロフィー症などの難病の生徒が多く、隣接した国立療養所八雲病院に入院し、通学している生徒は70名。障害児教育に夢を託した原さんであったが、赴任早々に大きなショックを受けた。担任数カ月後にクラスの生徒が亡くなった。筋ジストロフィーの生徒であったが、その翌日のクラスは、平常と変らず明るい笑い声が教室に響いていた。亡くなったクラスメイトを話題にもしていない。原さんは腹立たしかったが、やがてその理由を知ることになる。

原さんが知ったのは「自らの死が明日かもしれない生徒にとっては、死を考えないことが恐怖から逃れることになる。生徒が間近に迫る死についていつも考えていたら精神的にまいってしまう」ということであった。昨日まで一緒であった友達の死を考えないことが今日を生きる強さになっていたのである。健常者には理解しづらいことであった。

原さんは、生徒達に生きがいを見つけてもらうために「障害や病気をもった人でも社会のためにできることが一杯あると思う」と提案、生徒達の力で使用済み切手集めが始まった。また、パソコン通信を高等部の選択教科の「情報」にとり入れたことで、限られていた生徒の交流空間は世界へと広がっていった。ここでも「国際理解教育」が効果をあげていった。

着任早々に無線クラブを作りたいという要望は校長や同僚に即座に受け入れられ、翌日にはアンテナ建設のためのパイプや資材が運び込まれた。「学校にクラブ局を開設したいと考えている先生は多いが、学校から反対されてしまうことが少なくない。ありがたかった。しかも、アンテナ建ても同僚全員が手伝ってくれた」と振り返る。

原さんは特別許可を得て、高等部でも「電気」の授業を始める。アマチュア無線に興味をもつ数人には免許取得の課外授業を行なう。その年の6月、北海道電波監理局の配慮で八雲養護学校で移動試験が行なわれ、電話級に1名が合格する。原さんは内心、合格者2、3人を予想していたが、報告を聞いた校長は「ゼロが1名になったのだから素晴らしい」と喜んでくれた。第1号合格者の高田雅紀(JR8NBN)さんが基礎になって、昭和58年(1983年)7月に八雲養護学校アマチュア無線クラブ(JH8YFI)が誕生した。

昭和58年7月に「八雲養護学校アマチュア無線クラブ」が誕生した。写真はクラブ局のQSLカード。