[八雲アマチュア無線クラブの復活とブーム]

この年には、八雲アマチュア無線クラブを再結成させている。村井敦(JA8IOT)さんと相談し、かっては活発であった八雲のクラブを復活させた。次いで原さんが企画したのは、JARL渡島檜山支部の総会を八雲で開くことであった。開催については支部長や役員の承諾を得たものの、問題は内容であった。原さんは飲食をやめ、その経費で全国で活躍しているアマチュア無線家を呼び、講演会を開きたいと提案したからである。

しかし「支部総会は親睦も兼ねており、なごやかに食べ、飲むことも必要である」などという意見もあって反対が多かった。その時「1回そのようにしてみましょう」という発言があり、八雲での支部総会が実現した。八雲病院の患者も参加できるよう養護学校の体育館を借り、2000名のJARL会員が参加する盛大なものとなった。

「支部総会」は、昭和57年(1982年)に行われ、養護学校が購入してあったパネルで体育館壁面を仕切り、総会では初めて「ハムフェア」のミニ版のような展示も実施した。講師には福井県・大野市から前川公男(JA9BOH)さんにきていただき、アマチュア衛星通信について講演をしてもらった。「ねらい通りなかなか好評だった」と原さんはいう。この時、原さんはJARLの組織に初めて接触したが、その後は再びJARLとの接触は無くなった。

原さんは障害をもつ生徒達の立場に立っての教育に熱中した

[レピータの設置・セブンネット発足]

アマチュア無線用レピーターの名前は知っていたが、原さんが初めて見たのは、村井さんらと参加したフィリピンでのユニセフペディションの時であった。144MHzのハンディ機でも遠くの局と交信できることを知り、帰国するとすぐにレピーター対応のアイコム製IC-3Nを購入し、レピーターの実験を開始した。「レピーターがあれば、入院中のハムがベッドの上で交信できる」と考えたからである。

当時は日本ではレピーターは許可されていなかったが、ほどなくして、JARLのレピーターが電波監理局から許可になったとのニュースが流れてくる。原さんは八雲にレピーターを誘致することを決めて、JARLの公募に応募、JR8WCのレピーターが村井さん宅の庭に置かれることになった。運用が始まると、0.1Wのハンディ機で十分にカバーできることがわかり、病院の患者の交信範囲が広がっていった。「100万円ほど経費がかかったが、障害者や周辺のハムのためには安い買い物であった」と原さんはいう。

やがて,このレピーターを使用したローカルコールの「セブンネット」がスタートした。午後7時になると、当番のコントロール局が一人一人を点呼する。呼ばれた局は何らかの報告をすることになっており、ネットに入っている30~40局が30分で交信を終了するのが目標であった。7時に交信開始であることから「セブンネット」と名付けられた。

このネットを通じて八雲のローカル局は養護学校の生徒達が難病と戦っている姿を知り、支援の輪が広がっていった。また、養護学校、病院の職員も免許を取り「セブンネットを通じて、生徒と地域の人達、病院、学校の職員とのつながりが深まっていった」と原さんはこの当時を思い出している。ちなみに、この「セブンネット」は、その後14年間続いた。

ある時、重い脳性麻痺の高等部1年生が、アマチュア無線クラブ顧問の原さんを訪ね「文字盤」を指差し「ワタシモムセンヲヤリタイ」と訴えてきた。言葉も発せない重い障害のある生徒であったため、無線は無理と判断していた生徒であった。キーボードの文字入力も1分間に5、6字であったが、漢字も学年相応に使っており、感情も豊かなことはわかっていた。その後、彼女は養成課程講習会で第4級に合格する。原さんはいう。「これまで障害にとらわれ、彼女の高い能力に気がつかなかったことを反省した」と。

[ついに電波は出なかった]

障害をもつ生徒にとって、アマチュア無線はいろいろな意味でプラスとなった。ベッドの上でしか生活できない彼等にとって、遠方の人との会話は夢のようであった。周辺のハム達も彼等に理解を示すようになっていった。何よりも彼等に新しい生きがいが生まれたことは確かである。原さんは、どんなに障害が重い生徒にもアマチュア無線を勧めた。

周囲にハムが増えるにともない、ハム志望者は必然的に増えていった。ベッドから起き上がることのできない生徒に声をかけると「免許を取りたい」という。彼はベッドに寝たまま「講習」を受けた。講習期間中、病状に変化もなく、約1カ月後に免許証が届く。ところがその後に病状が急変、1週間後に亡くなる。ついに、1度も電波を出すことができなかった。原さんの周囲には、そういう悲しいことも少なくなかった。

レピーターのおかげで、生徒達は入院している病院のベッドの上から、ハンディ機で交信できるようになった