[特殊学校を転任]

原さんは、自身の希望通りその後は特殊学校を次々と転任している。平成5年(1993年)に北海道札幌盲学校教頭、6年に北海道旭川養護学校教頭、7年に北海道白糠養護学校校長と1年置きに転任し、9年には再び八雲養護学校に校長として赴任した。そして、平成14年(2002年)からは札幌盲学校の校長職である。

旭川養護学校は、八雲養護学校と同様に病院が併設されており、廊下でつながっていた。赴任にあたっては、学校敷地にあった築39年の木造官舎に住むことになった。事務長は市内のアパートに入居を勧めてくれたが「崩れそうなボロ屋であるが、旭川市内でもっとも高台の場所にあることと、学校まで3分ということが気に入った」ためである。

ただし、この学校では校舎にアンテナを建てることになかなか許可が出なかった。官舎にアンテナが立ちあがって2、3日後にPTAの会長が訪ねてきた。会長はハムで、シャック訪問に来られたのだった。無線で話しが盛りあがったが、会長は「学校に無線クラブを作ってください。生徒に免許を取らせたいのです」という。

原さんは早速、他の3人の免許をもつ職員と教室の角でアマチュア無線の運用デモストレーションをすることを計画、屋上にアンテナを上げようとしたが、学校から許可が出ない。それを聞いたPTA会長は「わかりました。PTAの事業として勝手に私がアンテナを上げます」といい、実際に上げてしまった。会長のこのような活動の結果、生徒、父兄、職員のアマチュア熱が高まり、学校内で「養成課程講習会」が開かれるようになった。

この講習の結果、生徒、保護者、学校職員、病院の看護婦、地域の人達40人が第4級アマチュア無線を所得した。しかし、無線クラブ設立は難航した。クラブ局開局は職員会議で認められ、教育課程のなかにクラブの活動が位置付けられたものの、またもや「学校に無線局を開設することは認められない」と事務部が反対。

「アマチュア無線局開局はは所定の手続きにより、郵政省(当時)が簡単に認める」と原さんは説明するが、理解してもらえなかった。事務部は、業務用無線と混同しているらしく大騒ぎの結果、ようやく認められるが、再び、屋上にアンテナを建てることで紛糾し、またもや、PTA会長が独断で建ててしまった。このようにして、ようやく北海道旭川養護学校アマチュア無線クラブ局「JH8ZXQ」が誕生した。

北海道旭川養護学校アマチュア無線クラブQSLカード

[南西沖地震での活躍]

札幌盲学校の教頭に就任した平成5年(1993年)7月12日、奥尻島が震源地に含まれる「南西沖地震」が発生した。最終的には死者・行方不明者が219名に達する悲惨な災害となった。奥尻島は、原さんがかって勤務した大成町から海を隔てて27Kmであり、生徒達と奥尻島で反射される電波の伝播実験を実施したこともあった。時間の経過とともに、深刻となる被害の大きさに驚いた原さんは、現地のハムとの連絡を試みたが、連絡はとれなかった。現地は無線どころではなかったからである。

3年前にJARL北海道本部長になっていた原さんは、奥尻島内の連絡網を作るためにもレピーターの設置を検討したが、受注生産のレピーターはすぐに間に合わない。そのため、前勤務校である八雲養護学校のレピーターの移設を計画、同校校長の即答で許可が出る。レピーターは「移動局」ではないため、移転にはJARLレピーター委員会、北海道電監の許可が必要であり、急いでも2カ月、通常は1年程度かかるものである。

ところが、わずか1週間で移転が終わってしまった。レピーター委員の村井さんや八雲アマチュア無線クラブのメンバーがそれぞれハンディ機をもって現地に入り、支援活動を開始した。電波は良く飛び、渡島檜山管内とも良好に交信できた。島内のアマチュア局も使用を開始した。「行政、JARL、地元アマチュア局の素晴らしい連携であった」と原さんは感動している。

[阪神大震災 現地から大きな感謝]

その後、レピーターの素晴らしさを知った現地からレピーターの恒久的な設置要望があり、原さんは全道のアマチュア無線局に呼びかけ、約50万円を集めてレピーターを設置した。この「南西沖地震」での体験は、「阪神・淡路大震災」への支援となって生きることになる。平成7年1月17日に発生し、戦後最大の災害となった「阪神・淡路大震災」の報を聞いた原さんらは、JARL北海道地方本部の役員、評議員の責任で乾電池5,000本を被災地に送ることを決めた。

ハンディトランシーバー用の電池が、現地では入手困難になっているだろうとの判断からであった。事実、被災地では乾電池は懐中電灯用、ラジオ用などの需要増加であっという間に品不足となり、現地で支援活動に乗り出しているアマチュア無線局の多くが乾電池の確保に苦労していた。同時に、遠い北海道にあって、原さんも5,000本もの乾電池の確保に奮闘していた。