乾電池の本数の多さに即納できる販売店がなかったのである。幸いなことに監査長の上田芳明(JA8EOM)さんの取引先に在庫があることがわかり、安価で、しかも現地で入手できるようにしてくれるという。その後、JARL北海道地方本部では「被災地に電池を送ろう」キャンペーンを実施、新聞社の支援を得て集まった寄付金でさらに5,000本の乾電池を送ることができた。

この電池が被災地でいかに役立ったかは、すでに終わっている連載「社会に貢献するあるハムの人生」で紹介されている。この時、JARLはアマチュア無線機器メーカーの協力を得て、約260台のハンディ機を現地に送り込んだ。その電源として貴重なプレゼントであり「南西沖地震を体験した北海道の思いやり」と、ボランティア活動をしていた長谷川良彦(JA3HXJ)現・関西地方本部長らを感激させた。

[白糖養護学校校長]

平成8年(1996年)4月1日、原さんは釧路支庁管内の白糠町にある白糠養護学校の校長に転出した。それまでの業績が認められたものであるが、かっての上司、同僚、ハム仲間からはお祝い、激励の電話、手紙が寄せられた。気楽にものをいいやすい原さんだけに「無線をやって校長になった幸せ者」という冗談ともやっかみともつかない言葉もあった。“ねあか”な原さんはそういう時には「私もそう思う」と、一緒になって笑うことにしていた。

白糠養護学校の官舎は広大な湿原の中に2メートルも土盛りをした敷地内にあり、原さんは「周囲にいくらでもアンテナを張り巡らせる」と喜び、早速、パンザマストを建てる穴掘りを始めた。ところが、1メートルも掘り進めると穴の壁から横から水が滝のように噴き出した。「これまで20本以上もアンテナの穴を掘ったが、初めての経験だった」という。

やむなく、土建屋さんに依頼すると見積もりは3人で半日かけて4万円であった。実際は難作業であり10人が取りかかり、2日もかかってしまった。白糠養護学校の生徒の主な障害は脳性麻痺による肢体不自由と言語障害。話せない生徒にどのようにして電波を出させるか。しかし、原さんはここでもアマチュア無線の楽しさと、無線を通じて交流ができ、それによる生きる楽しさを与えることにした。

幸い、すでに保護者の方々は、原さんのそれまでのアマチュア無線による教育成果を知っており、「うちの学校の生徒にも無線を教えて下さい」との要望があった。着任5カ月後に、白糠アマチュア無線クラブの協力をえて、養成課程講習会を開催にこぎつけている。その後、原さんの任期2年間に7回の講習会を開き、400人のハムが誕生している。

講習会には、元釧路根室支部長の旭迪(JA8BGR)さんが講師として協力してくれた。話せない生徒のためには、パソコンなどの支援機器と「音声合成」技術が活用され、SSTV(静止画像通信)などを利用した。翌9年9月には白糠養護学校アマチュア無線クラブ(JR8YDG)が開局。免許をもつ職員、旭さんらの土日返上の指導によるものであった。

北海道白糖養護学校アマチュア無線クラブJR8YDGの開局式

[ボランティア活動]

その後、八雲養護学校、札幌盲学校の校長を経て原さんは、今年(平成15年)の3月に札幌盲学校校長職を退く。定年前に長年勤めた教育の世界から去ったことになるが、その理由は「やりたいことがあり、元気な内に時間が欲しかった」からである。「やりたいこと」の一つが「ユニセフ」支援活動である。

ユニセフ(UNICEF)は、「国連国際児童緊急基金」と訳されており、昭和21年(1946年)12月の第1回国際連合総会で創設された。将来のある子供達の権利を守り、潜在能力を引き出す機会を広げるのが目的。貧しかった戦後の日本にも、この援助の手が差し伸べられミルクなどが贈られた。昭和25年(1950年)にユニセフを廃止する動きが出始めたりしたが、3年後の1953年に「国際連合児童基金」と改称されて、継続されることが決まった。

昭和30年(1955年)になると、日本には「日本ユニセフ協会」が設立され、翌年からユニセフ協力募金が学校を通じて開始されている。この間でも伊勢湾台風で被災した母子に毛布が贈られるなど、日本への援助が続けられていたが、昭和39年(1964年)日本への援助は終了した。ユニセフによると、それまでの15年間の日本への援助総額は65億円という。

原さんがバンコク日本人学校政府派遣教員から帰国した後、その経験を生かして「国際理解教育」を実践したことはこれまで触れた。ユニセフとはその関係で結びつき、ユニセフへ支援のための切手収集、学校募金活動などを進めていたが、ある時、「ユネスコ(UNESCO)への支援活動に比較すると、日本のユニセフ支援活動はお粗末ではないか」と気付く。

重度の障害を持つ生徒のために音声合成技術を活用するなど工夫がされた