ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)も昭和21年11月に国連によって創設され、日本は昭和26年に加盟した。日本が国連に加盟できたのが昭和31(1956)年であり、それより5年も早かった。ユネスコは国単位で加入する組織であるが、民間組織が加入できるように改められたのは日本によってであった。

昭和22年(1947年)に仙台市に「仙台ユネスコ協力会」が発足、熱心に支援活動を行った結果、民間組織単位の加入も認められるようになり、現在は世界100数十カ国に5000以上の協会やクラブがある。日本でも各地方自治体が組織をもつようになっていったが、一方のユニセフは、募金活動のみにとどまっており、原さんは「なんとか協力できないか」と考え続けていた。

原さんは昭和50年(1975年)に赴任した江差町立江差小学校で、ユニセフ募金活動に力を注いでいたが、発足した同窓会組織「あけぼの会」が母体となりユニセフの支援が始まった。昭和53年(1978年)、原さんは上京の折に港区の高速道路下の古びたビルにある日本ユニセフ協会を訪ね、橋本正(まさ)専務理事に会っている。

日本ユニセフハムクラブの発祥となった「あけぼの会」による切手収集活動で、整理する子供達

その時の印象を原さんは「古びたビルの雑然とした事務所兼作業場の古びた机に年配のご婦人が座っておられた。その方は、まだ30歳そこそこの私に深々と頭を下げられ、ユニセフへの協力に丁寧にお礼を述べられた。大した事もしていない私は恐縮してしまった」と、後年記している。橋本さんは昭和37年(1962年)に日本ユニセフ協会の理事となり、昭和41年(1966年)から63年(1988年)まで専務理事を務めて、ユニセフ活動に多大な貢献をされた。

ユニセフ「青年の翼」視察団。中央の立っている女性が橋本正専務

実は橋本さんは戦前に政友会の幹事長であった若宮貞夫衆議院議員の五女で、厚生大臣になった橋本龍伍さんと結婚。したがって、元首相の橋本龍太郎衆議院議員の継母であり、橋本大二郎・高知県知事の実母に当たる方であった。原さんは、最初はこのような事情を知らなかったが、訪問するたびに「丁寧に挨拶され、徐々に“北海道の原”と覚えていただけるようになった」という。

[日本ユニセフハムクラブ]

昭和54年(1979年)、日本ユニセフ協会は、タイやバングディシュに「ユニセフ青年の翼」視察団を派遣、原さんも参加する。この旅行で、団長であった橋本さんと親しく話す機会があり、趣味のアマチュア無線を話題にすると「祖父が逓信局長の頃、アマチュア無線のことを聞きました。楽しいそうですね」とハムを知っていたという。

原さんが「ハム仲間にユニセフ活動を呼びかけたいのですが」と相談すると「ぜひやってみてください。応援しますから」と支援を約束された。江差小学校同窓会の「あけぼの会」は、すでに北海道ユニセフ協会に加入していたが、昭和56年(1981年)にユニセフへの支援を呼びかける目的でタイのバンコクへペディションに出掛けた。この活動が「日本ユニセフハムクラブ」へと発展していった。

ハムクラブの顧問に橋本専務が就任したが、世界でも例のないアマチュア無線局による支援だったためであろう。「橋本専務は、わかりましたお引き受けしましょう、と一つ返事で了承いただいた」ことを原さんは記憶している。同クラブの目的は「ユニセフに協力し、開発途上国の理解と自立のための援助活動を通じて、国際理解と国際協力を進め、世界の平和に貢献する」ことであり、活動内容は、

  (1)広報用QSLカードの発行
  (2)子供の日コンテスト主催
  (3)JCC・JCGサービス
  (4)アワードの発行
  (5)Tシャツ・テレホンカード・コーヒーなどの販売
  (6)直接援助

などである。原さんはこのクラブの会長を最初から務め、中心として活躍している。しかし、結成時は理解を得られないことも少なくなかった。北海道内で「あけぼの会」の活動を知っているハムは、ハムクラブの目的をわかってくれたが「他の地区ではすぐにはわかってもらえず、なんとなく“うさんくさい”と思われた方も多かった」と、原さんはその頃を思い出している。

当時、ハムクラブといえば、地域単位、あるいは同じ目的をもっての運用のためや、職場ごとに結成されるケースが多く、社会福祉を目的にしたクラブはほとんどなかった。このため、なかには「金儲けをするのではないか」と疑われたりした。現在会員は約400人。Tシャツなどの販売収益は活動費の補助に当てられるが、募金活動は運営資金と明確に区別するためにUHB(北海道文化放送)が窓口となっている。

日本ユニセフハムクラブの国内ツアー活動

[ユニセフペディション]

現在、ユニセフ支援のクラブは、他に京都大学、東京大学のクラブを含めて10クラブほどある。そのなかで「日本ユニセフハムクラブ」は、アマチュア無線を通じての支援を基本にしてきた。原さんはこれまで50回ほど海外に出掛けたが、その約半分はユニセフ支援ペディションだった。韓国では「韓国ユニセフハムクラブ」の発足に協力した。