「韓国ユニセフハムクラブ」は、メンバーに著名人が多い。「どういう社会的な基盤があるのか、韓国では社会貢献の関心が高く、組織ができやすい」と、原さんはいう。民間の援助が活発なため、このクラブにもハイクラスの方々が集まり、原さんにすると「支援の力が強いのはうらやましい」ということになる。

海外ペディションはほとんど東南アジアであり、バングラディシュ、ネパール、モンゴル、スリランカなどの発展途上国や、タイ、フィリピンで行われている。原さんはいう。「ユニセフ活動組織は欧米には出来上がっている。組織が出来ていない地域でのバックアップをしたいからである」と。

1988年タイでの日本ユニセフハムクラブのペディション

クラブの行っている直接援助には、ネパールのモデルプライマリースクール支援がある。原さんとネパールとの関係は昭和59年(1984年)に始まる。ネパールで日本ユニセフハムクラブ活動ができるかどうかの調査が目的であった。カトマンズで出迎えてくれたのはパダマ タラさん。パダマさんは、原さんの家庭にホームスティしたことがあり、カトマンズでは学校や市内を案内してくれた。

[ネパール・モラン神父の日本講演]

原さんの目的の一つがセントザビエルスクールのモラン神父に会うことであった。モランさんは9N1MMのコールサインをもつネパールでただ1人のハムであり、優れた教育者であった。その後、何度もモランさんに会い、質素な生活と教育にかける情熱に感動した。「朝食はパンとコーヒーのみ。寝室はベッドがあるのみで家具は何もない生活でした」という。

原さんは「財産を一切持たず、ただ神に祈り、ネパールの子供の教育に専念しておられる」モラン神父の日本講演を企画する。原さんの依頼に対して「“ああ、いいですよ”と、まるで隣の町にでも出掛けるような気軽さで了承いただいた」という。「気が変わらない内に」と原さんは旅行会社に行き、チケットをモランさんに渡す。モランさんは札幌、東京、大阪で講演し、深い印象を残して帰国した。

ネパール唯一のハムであるモラン神父のシャック

モラン神父の講演会は札幌でも行われた

「80歳を超えたモラン神父には残された時間はあまりない」と考えた原さんの日本招待であったが、帰国した翌年、モランさんは亡くなった。原さんは1カ月後に墓参することができた。「ネパールの、そして世界のアマチュア無線界の偉大な人を失った」と、原さんはその思いを書いている。

余談ではあるが、ネパールに関して原さんが感激している事柄がある。同じ北海道の阿部一典(JA8MWU)さんのネパールへの愛である。阿部さんは北海道にある母校の大学に毎年1人のネパール留学生を入学させ、自宅でめんどうを見ている。ほとんどの留学生は日本に来てから日本語の勉強をしてから大学に進むケースが多い。

このため、阿部さんはアルバイトをしながらの日本語学校時代と、大学時代の2つの期間を通じて身元保証をしていることになる。「1人の留学生の保証をすることは実に大きな責任を負うことなる。阿部さんはそれを1人で何人も背負っている。私にはとてもできないことです」と原さんは自らのホームページに記している。

[広がるハムのユニセフ支援]

再び「日本ユニセフハムクラブ」の活動に戻る。活動内容は先に触れているが、国内の主な活動を詳しく説明すると、97年から5月5日には「ユニセフこどもの日コンテスト」を実施し、また、JCC(全国100~600市とのQSO)JCG(全国100~600郡とのQSO)サービスを行っている。ハムの少ない市や郡に出掛けて交信するもので、クラブ局4局のコールサインが使われる。

JARLの組織による支援では、使用済み切手、使用済みテレホンカードの収集、募金活動がある。各地で行われている支部大会の機会に募金や収集を呼びかけており「協力していただける支部が増加してきている。ハムフェアなどのイベントにはクラブのブースを設けて関連グッズの販売のほか、同様に募金や、切手、テレカの収集を訴えてきた。協力者からは郵送で届けられる。

昭和63年(1988年)札幌で地方博覧会「世界食の祭典」が開催された。バブル経済が始まってほどないこの頃の日本では各地方自治体が盛んに博覧会を企画した時代であった。北海道も150日間の会期での企画を立てたものの「地方博ブーム」となり、出展依頼の殺到に大手企業は乗ってこなかった。原さんは札幌市内のユニセフ支援グループ10団体に呼びかけ、ただ同然で広いスペースに出展できた。

「世界食の祭典」の記念局を訪れた橋本・日本ユニセフ協会専務(中央)。右は原さんの奥さん、典子さん

ハムクラブは、記念局JH8YDYを開設した。開幕して間もなく橋本専務が激励のために会場を訪れて、ボランティア全員に丁寧にねぎらいの言葉をかけてくれた。折悪しく、原さんは不在であった。橋本さんは平成3年(1991年)1月に日本ユニセフ協会の顧問に就任し、同10年(1998年)に亡くなった。ユニセフのための後半生だった。原さんは「家柄の良さは表面に出さず、普通の庶民的な方であり、やさしい方でした」と思い出を語っている。