[ARDF発展を願って]

もう少し、ARDFの話題を続ける。中国の選手は体育大学の体育科に所属しており「彼等は毎日、練習をしている。それに対して、日本ではハムの高齢化が進んでおり、このままでは太刀打ちできない」と原さんはいう。2時間にわたり6Kmから10Kmの山野を駆け回る競技は、確かにスポーツでもありそうだ。

全日本ARDF競技大会は、今年(2003年)10月に秋田県、2004には岡山県で開催の予定である。参加者が減り気味なのを原さんは心配している。「ARDF参加の資格はアマチュア無線の免許を必要としていない。高校生の参加を促したい」と考えている。それには参考になる例があったからである。

平成11年に新十津川で町で開かれた北海道地方ARDF競技大会

昨年の全日本大会に高校生を参加させた高校があった。引率してきた顧問の先生に聞くと「実はあまりスポーツの得意でない生徒にもARDF競技に参加を誘っているんです。その結果、自信をなくしている生徒が嬉々として取り組み、自分に自信を持つようになった」という。原さんは「教育の一環として取り入れている」ことに感動した。

現在、高校のアマチュア無線クラブを高文連(高校文化連盟)に加盟させているのは神奈川県だけである。「高文連への加入と、ARDF参加者拡大を図りたい」という原さんであるが、もう一つの問題として「日本ではルールが厳しすぎる」という悩みをもっている。

「海外ではルールは厳しくない。皆楽しんでやっている。また、ルールが厳しいために日本ではルールを監視する審判員の数も多くなり、開催経費もかかってしまうことも問題」と指摘する。中学生や高校生が楽しく参加できれば「やがて、その子達がアマチュア無線に興味をもち、ハムになるケースも出てくる」と期待する。

[訪れた約20年前の予想]

日本ユニセフハムクラブ会長、JARL北海道地方本部長などの激務をこなしていた原さんであるが、身体の変調がひそかに忍び寄っていた。この連載の冒頭に触れている「B型肝炎」の発症である。原さんの肝炎との戦いはアマチュア無線とも、学校教育とも関係がないが、原さんの「生への返還」でもあり、ぜひ触れておきたい。

ただし、読み進むにつれて涙が流れるであろう「生体肝移植38号の記録」のホームページは膨大である。興味ある方はそちらをお読みいただきくことにして、ここでは20分の1程度の要約として紹介しておく。原さんがB型肝炎(オーストラリア抗原)であることを知ったのは、海外青年協力隊に応募し、2次試験を受け制服採寸の後の健康診断での血液検査の結果だった。

バンコク日本人学校政府派遣教員だったのは昭和47年(1972年)4月からの3年間であり、その間に感染した肝炎が昭和53年(1978年)7月15日に判明したのだった。当然、海外青年協力隊は不合格となり、慌てて訪れた病院で「肝機能は正常であるが、感染から20年後位に肝臓障害が起こるといわれている」とつらい予告を受ける。

体調がおかしいと気付いたのは平成5年(1993年)の年末の頃である。緊張すると黒い便が出始める。予告された通り約20年後だった。平成7年8月には食道静脈瘤が発見され、平成10年9月にはトイレで倒れることもあった。その後、平成12年(2000年)初めまで短期の入退院をくり返し、静脈瘤に硬化剤を注入する「硬化療法」を受ける。

初めて「硬化療法」を受ける頃は、まだ、原さんにゆとりはあったらしい。手術室で「医師の○○です」「レントゲン技師の○○です」「看護婦の○○です」と自己紹介を受けた原さんは、思わず「患者の原です」といいそうになり、慌てて「よろしくお願いします」と頭を下げた。

原さんは学校の冬休み、夏休みを選んで1カ月以内の短期入院を繰り返した。年末年始には外泊の許可を得て、家族と一緒になったが「この15年くらい年末年始に家にいたことがなかった」原さんにとっては久しぶりの水入らずの日を過ごすことになった。この年の6月、腹水に水が溜まり、体重が10Kgほど増える。

意識を回復して15日後。奥さんに「CQ ham radio」を届けてもらったものの、字が読めなかった

[緊急事態]

9月、4回目の「硬化療法」を受けて退院。5日後、勤務中に午前中の事柄を午後には忘れていることに気付く。原さんはホームページで読んだ「肝機能障害の最後は意識障害がきます」を思いだし、自ら「肝臓障害の末期状態」と直感する。緊急入院した地元の八雲総合病院で、生徒の東京への修学旅行が迫っていることを思い出し、一緒に行けない「お詫び」を書こうとした。

原さんはこれまで難病をもつ生徒の修学旅行実現の努力を続けてきた。半日から初め、1日、1泊2日と徐々に日程を延ばし、生徒の要望を受けて、ついに東京行きができるようになり、その初の旅行であった。どうしても「お詫び」を書かなければならなかった原さんであるが、手に持った鉛筆に力が入らない。文字が書けなかった。