字も書けなくなった原さんは奥さんに代筆を頼んだ。「君達が八雲養護学校で初めての東京への修学旅行です。実現のために長い年月がかかったね。元気に八雲に帰ってきて下さい」実現までのことが思い出され、原さんの目には涙がにじんできた。10月半ばであった。そして、10月末になると尿が出なくなり、腎臓障害もおき始めた。

11月初め、たんぱく質を点滴するなどの治療が中止され、肝不全、腎不全が宣告される。ついに、最後の手段である肝臓移植を受けるために11月13日、北海道警察のヘリコプターで札幌の病院に移送される。意識を失っている原さんへの肝臓移植は奥さんと3人の娘さんが決めていた。移送された病院のICU(集中治療室)に入った原さんだが、容体は最悪であった。

村井敦(右)さんが看護婦詰め所の目をかいくぐって見舞いに来てくれた

[38番目の肝臓移植]

腸閉塞が3カ所で起こり、肝移植も絶望となった。意識は混濁し幻覚症状が現れた。しばらくすると、突然便意をもよおし大量の便が出始めた。腸閉塞が治ったのであるが、原さんは「奇跡が起こったといってもいいでしょう」と、後に記している。溜まっていた腹水は腹部に穴を開けて出した。

移植手術のために北大付属病院に移る。手術を前に10分間の奥さんとの面会が許される。奥さんの手を取った原さんは「あと1日生かして下さい、と一緒に祈って欲しい」と頼む。とても、1日以上は生きられないと思っていたからだった。

肝移植は成功した。北大付属病院では38番目の肝移植であった。肝臓は三女の清美さんが提供した。手術を受けたのは11月29日、ヘリコプターで移送されてから3週間以上もたっていた。手術後11日目には一般病棟に移ることになったものの、幻覚はまだ続いていた。すでに病室に移されていたにもかかわらず、原さんは病棟の廊下に移動ベッドのまま放置されていると錯覚していた。身体には点滴のチューブや腹部とつながったチューブなどが付いており、そのチューブが完全に取れたのは術後50日もたってからであった。

原さんが一般病棟に移ってしばらくして、水分を飲んでも良いとの許可が出た。無性にジュースが飲みたかった原さんに、奥さんは買ってきたジュースを渡す。ところが、飲むことができなかった。「飲む」機能が失われたのか、気管支の方に流れてしまいむせてしまう。おまけに「めちゃくちゃ甘くて飲めたものではありません」原さんはまだ「死の寸前にある時は味覚が狂うようです」と心配していた。

10日以上たった頃、ベッドから起きても良いとの許可が出る。トイレに行こうと、ベッドに腰を下ろして立とうとすると「身体が崩れてしまうのです」。歩くのはとても出来るものではなかった。やがて、車椅子で病棟内を自由に移動することが許可された。看護婦さんは「原さん、車椅子を上手に乗りこなしますね」と褒める。当然であった。原さんは15年も肢体不自由養護学校に勤務し、新任職員に「車椅子の乗り方と介助の留意点」を教えてきたのである。

[社会復帰]

退院から通常生活に戻るのに「社会復帰」は大げさのようであるが、原さんの場合はまさに「復帰」と呼ぶのにふさわしい手順を踏まざるをえなかった。ヘリコプターで札幌に運ばれて以来、奥さんは病院の近くにあるホテルを転々として泊り込みながら看病を続けていた。原さんの容体がいつどう変化するのか、退院できるとすればいつなのか、めどがつかない限りワンルームマンションなどを借りることが出来なかったからである。

入院生活も年を越し、平成13年(2001年)になっていた。2月中旬「原さん、後はリハビリだけです。今月末で退院です」といわれる。前年の10月に「死の宣告」を受けて、一時は覚悟した家族にとっては夢のようであった。その頃には200m程度はゆっくりと歩けるようになっていた。ようやく、近くにワンルームマンションを借りる時期がやってきた。病院から500mばかり離れた場所に決めた。

週1回の通院が始まる。500mの距離をタクシーで往復する。3月10日には八雲の自宅に1泊2日の帰省をし、4月27日には奥さんを介護役にして上京する。JARLの理事会出席のためである。8カ月ぶりであった。皆が“奇跡のカムバック”を喜んでくれた。「ぼつぼつ原さんの後任者を補欠選挙で選ばなければならないだろう」と検討していたことも聞かされた。

北大付属病院での定期検診が一生続くことがわかったため、原さんは札幌に住所を移すことを決め、10月末に市内に住宅を購入する。札幌盲学校校長への復帰は平成14年(2002年)4月1日だった。4月8日に行われた入学式の日、校歌斉唱が進むにつれて原さんは涙を押さえられなくなった。

原さんの自宅にはたくさんの標識が出ている

壇上での校長祝辞は読むことが出来ず「私は2度と皆さんの前に立つことが出来るとは思っていませんでした。皆さんも障害に負けずに勉強しましょう」と、原さんは不覚にも涙ながらに話すことになった。一瞬シーンとした会場は大きな拍手に変った。

原さんが勤務していた札幌盲学校。今年3月に退職した。