[団塊世代] 

加藤さんが当時の空知郡栗沢村に生まれたのは昭和23年。出生率が高く、同年代の人口が多い「団塊世代」の真っ只中の生まれであった。敗戦によって日本経済は疲弊していたが農業中心の北海道は、米軍の空襲による被害もほとんどなかったため、食べるものに困り「ひもじい思いをした記憶がない」と加藤さんは言う。栗沢の地名はアイヌ語の「ヤムオナイ(栗の多い沢)」から付けられたといわれている。

その後、昭和25年に栗沢町となり、さらに今年(2006年)3月に岩見沢市に編入された。明治15年(1982年)に岩見沢村から分村により栗沢村が誕生したことを思うと、元の鞘に収まったと言える。昭和29年、加藤少年は近くの栗沢小学校に入学。小学校3、4年になると工作物に興味をもち、電池駆動のモーターを作ったり、豆ランプを点滅させる交通信号の模型を作った。

現在は移転し、新築されている栗沢小学校

やがて、ゲルマニウムを使ったラジオのキットが販売されると、買って組立てた。「ロケットの形をしたラジオであった記憶があるが、出力が弱くほとんど聞こえなかった」と言う。その後、鉱石検波器を求めて鉱石ラジオを作るが同様にイヤホンからの音は「かぼそかった」らしい。小学校5年生になっていた。「いろいろ、接続を確認したりコイルを触ったりしたが駄目だった。聞こえにくいものだ」と加藤少年はあきらめた。

[富山から入植した祖父] 

家は農業であった。明治時代、祖父である加藤正信さんが冨山から北海道に入植し、苦労の結果、太平洋戦争までには地主として、広大な農地を保有するようにまでになっていた。「祖父が入植した時期は明治半ばであったのは間違いないが、詳しい時期はわからない」と加藤さんはいう。当時、北海道への入植人口が最も多いのは青森県で、次いで新潟、秋田、石川、冨山の順であった。

調べてみると、入植が本格化した明治19年(1886年)から大正11年(1922年)までの190万人の入植者のうち、富山県人は4万1千人であった。その冨山県から岩見沢市への入植は多かったらしく、同市の西川町には越中開墾八幡神社があり、また、大願町の大願神社の獅子舞は冨山県の氷見からやって来たものと言われている。

北海道の開拓は明治2年(1869年)に北海道開拓使が置かれ、よく知られている「屯田兵」は明治8年(1875年)に募集されて以来、明治24年(1891年)に現役引退まで続いた。その間もその後も、一般の入植は続いたが入植者はさまざまであった。新天地に夢を持った人、窮迫して北海道にすがった人、一旗挙げる目的の豪商もいた。

[食べられるまでに3~4年] 

この北海道開拓の歴史研究はさまざまな角度から進んでおり、入植者の氏名までも整備されつつある。簡単な調べでは加藤正信さんの記録はないが、栗沢町の隣り幌内町に入植した富山県人、窪田和夫さんのことを北海道新聞岩見沢支局の佐藤隆一さんが触れている。窪田さんは明治31年(1898年)に入植してすぐに樹木を切り倒して掘っ建て小屋を作ったという。

窪田さんの描写はそれだけであるが、当時を記す別な記録では多くの入植者は「熊笹を屋根に葺いただけの小屋の寒さに凍死する人も出て、郷里に逃げ帰る人も少なくなかった」と紹介されている。入植者への優遇条件は時代とともに変っているが、明治27年(1894年)の富山県の入植者について、次ぎのような記録がある。

渡航費、1年分の食糧を貸与、一反ごとの開墾料を支給、3年間の年貢免除、開墾した土地の8割に永小作権を与える、というものであり、さらに明治30年(1897年)には「国有未開地処分法」が制定され、開墾地は無代貸与され、無償で払い下げになった。しかし、それでも生活は困窮し「食べられるまで3、4年かかった」という。

[農地開放] 

入植者の加藤さんもこのような辛苦の結果、地主までになった人であるが、太平洋戦争後の農地開放でその多くを没収されることになる。戦争当時すでに加藤家の戸主はその子息、つまり、この連載の主人公である加藤さんのお父さんの代になっていたが、兵役に取られ中国に出兵、帰国したのは昭和22年になってからである。

農地開放は不在地主の土地を小作人に渡し、小作人をなくして自作農家にする民主化政策の一環であった。加藤家では今だ帰国しない戸主が不在地主に指摘され、かなりの土地が取り上げられたのである。そのような動きは幼い加藤少年にはわからなかったが、残った土地でも加藤家は不自由のない生活を続けていけたといえる。

[北海道のラジオ放送] 

ところで、北海道のラジオ放送は昭和3年(1928年)に日本放送協会(NHK)札幌放送局によって始められ、終戦の年の昭和20年(1945年)に同放送局によりラジオ第2放送がスタートしていた。組立てたラジオでの受信が明瞭にできない加藤さんは「送信所から遠すぎて電波の入力が弱いためではないか」と考えた。6年生となり、修学旅行で温泉に行くことになり、送信所に近い場所のため期待を持ってラジオを持っていったが「やはり音は弱かった」と悔しい思いをしたことを覚えている。

ついでにラジオ民間放送について触れておくと、HBC(北海道放送)が昭和27年(1952年)3月に放送を開始し、STV(札幌テレビ)は昭和34年(1959年)にテレビ放送を始めた後、昭和37年(1962年)12月にラジオ放送を開始している。わが国の民間ラジオ放送は昭和26年(1951年)に始まっており、HBCの放送開始は地方局としては遅くなかった。

ゲルマニウムラジオ-NPO法人「ラジオ少年」が提供している製品