[真空管ラジオ製作] 

作り上げたゲルマニウムラジオに、アンテナとして電灯線を使った「電灯線アンテナ」をつなぐとラジオ放送が聞こえ出した。学校の勉強を放り出して夢中になっている加藤少年を父親の弘之さんはあまり厳しく言わず見守っていた。加藤少年の下に妹3人が生まれ家族は賑やかになった。「父親は手先が器用で、とくに木工品の加工が得意で机とかいすなどは立派に作っていた」と言う。

それだけに「ラジオ少年」になった加藤少年を頼もしく思っていたと言えそうだ。昭和36年(1961年)栗沢中学校入学。「ラジオクラブのような部がなかったため放送部に入った」加藤少年はそこで3人のラジオ少年に出会う。「ラジオについての知識は皆同じようなレベルだった」と思い出している。

それでも「皆のもつ知識が違うため、お互いに急速に知識が高まり、また、良い意味での競争も始まった」と言う。ラジオ技術の雑誌を回し読みしたり、科学雑誌を読み漁ったりして、真空管ラジオの作り方を知る。とりあえず「並4ラジオ」を組立てた。「立派に受信でき、スピーカーから大きな音が聞こえ、感動したことを思い出す」と言う。

[ラジオ自作がエスカレート] 

昭和39年(1964年)加藤少年は岩見沢の高校に進学する。無線通信や電子工学に興味をもっていた加藤少年は実は工業高校に行きたかった。しかし、両親は農業を継いでもらうために「農業高校に行ってほしい」といい、他の専門知識を身に付けることに大反対だった。このため岩見沢の高校への進学となった。

高校に入学したとはいえ、無線通信熱はますます燃え上がっていた。自作するラジオは、高1(高周波1段増幅)高2(高周波2段増幅)とレベルが高まっていった。クラブはやはり「放送部」に入った。中学校と同様に「ラジオクラブ」とか「無線クラブ」や「科学部」がなかったからである。高校では先輩にラジオ少年がいたが「最後まで気がつかず、自分で雑誌を読んで勉強していた」と当時を語る。

3球ラジオ(並4相当) ---NPO法人「ラジオ少年」提供の製品

[便利屋さん] 

太平洋戦争が終了してしばらくの間は、町の電気店がラジオ受信機を組み立てて販売していた。メーカーの生産する製品の値段が高いためもあり、また、製品には物品税がかけられて販売されていたからである。もちろん厳密には電気店の作った製品も物品税の対象ではあったが、完全に捕捉できたわけではなかったし、物品税を支払っても安くできた。このため、電気店は当時は「ラジオ屋」と呼ばれていた。

加藤少年のこの時代、すでにメーカーの量産品が市販されるようになっていたが、まだ名残があり「ラジオ屋」の店頭には真空管や、コイル、トランス、抵抗器、コンデンサー、バリコンなどが置かれていた。このため、加藤少年もこれらの一般部品は岩見沢の「ラジオ屋」で求めることができた。やがて、加藤少年は「スーパーヘテロダイン方式」の自作をするようになる。

これまでの「並4」や「高1」「高2」に比べて、受信電波の選択度が高まるからであり、民間ラジオ放送が始まると、混信を防ぐためにはどうしてもこのラジオが必要だった。加藤さんはこの「スーパーヘテロダイン方式」ラジオで短波を受信しようと挑戦する。それには近くの「ラジオ屋」では部品が揃わない。

そこで利用したのが「便利屋」と呼ばれていた人であった。「便利屋」は、希望の商品を聞き、代金を預って札幌まで出かけて、その商品を買ってきてくれる人のことである。加藤さんは「非常に便利な人たちであった。時間と交通費が節約できた」と言う。そして、いよいよ加藤さんは短波の受信に挑戦する。

5級スーパーラジオ --- NPO法人「ラジオ少年」提供の製品

[SWLになる] 

短波放送を聞くようになった加藤さんは毎日夢中になって海外放送を聞いた。海外からの日本語放送をダイヤルをわずかずつ回しながら受信する感触がたまらなく楽しかった。時々、外国語の放送や、モールス信号らしい音が聞こえてきた。もっと弱い電波も受信したくて「受信機を壊しては作り直していた」時代である。

そのうちにアマチュア無線の交信らしい電波を受信する。後でわかったことであるが、すぐ近くに竹田幸次郎(JA8PV)さんがおられて、毎日のように交信をしていた。また、ほどなく「テレビ放送のドラマでアマチュア無線が登場し、ますますアマチュア無線に興味をもったものの、どうしたらハムになれるかがわからなかった」と言う。

[急増するアマチュア無線局] 

わが国のアマチュア無線は戦後、昭和27年(1952年)に再開され、加藤少年が興味をもったこのころは約10年が経過し、順調に開局数は増加を辿っていた。とくに、昭和34年(1959年)に新しい免許資格が生まれ、容易にハムになる道が開けていた。従来の1級、2級に、電信級、電話級が誕生したからである。

このため、昭和35年(1960年)には新たに6900人のハムが生まれ、その後、4800人、5200人、5600人と毎年増加を続け、加藤さんがハムになる道を模索し始めた昭和38(1962年)には、 全国に3万1千人のハムがおり、第1次アマチュア無線ブームの兆しを見せていた。

加藤さんの中3時代