[受験] 

友人3人と雑誌を読み、ハムになる道を知った加藤さんら高校生3人は「電話級」の受験を目指すことになった。昭和41年(1966年)になると、アマチュア無線の技術、理論の講習を受け、その後の簡単な試験で免許を取得できる「養成課程講習会」の制度ができるが、加藤さんらの時代は従来通り試験を受けるしか方法がなかった。

加藤さんらは「過去の試験問題集や雑誌に掲載されていた事例問題などを必死に暗記した」と言う。昭和39年(1964年)10月、3人は日帰りで札幌市に出かけて受験、全員が合格した。加藤さんはそれまで集めていた部品を使い自作を始めた「徹夜したこともあった。ちょうど東京オリンピックが開かれており、テレビを見ながらも組み立てをした」ことを記憶している。

加藤さんが受け取った初めての免許証

[807] 

アマチュア無線機は戦前は当然、戦後もハム自身が自作していたが、ハム人口が増加するのにともないメーカーが登場し、市販が始まった。メーカーによる受信機は昭和20年代末に始まり、送信機は30年代になって始まった。その後、メーカー数は増加し一時は100社程度にも達している。

加藤さんのこの時代、すでに市販品は増えていた。しかし、高価であり自作の方が安かったことから多くのハムはまだ自作していた。市販品の販売が急増しだすのは「養成課程講習会」制度が始まってからだった。加藤さんは当時、送信管の主力であった807真空管を使い送信機を作り上げた。「無線雑誌には自作の記事も多く、それほど自作に苦労した記憶はない」と言う。

[保証認定] 

自作機の保証認定の申請、開局届を出し、局免許は翌40年1月に届く。コールサインはJA8CDTとなった。戦前、戦後もアマチュア無線の開局に際しては開局を申請すると予備免許が与えられ、当時の電波監理局係官が測定器持参で訪れ、厳しい検査をして初めて本免許が与えられた。

しかし、ハムの増加とともに電監の体制が追いつかなくなったこともあり、昭和34年(1959年)に「保証認定」制度ができ、開局申請された出力10W以下の無線機の場合はJARLが保証し、それにより煩わしい電監の検査もなくった。その後昭和49年(1974年)には、JARLが承認した機種については「保証願書」の送信系統図の記載が省略できるようになり、さらに昭和59年(1984年)には「保証認定」は100Wまで広げられ、現在では200W未満までに拡大している。

また、この「保証認定」を行う機関も変遷し、当初のJARLから平成3年(1991年)にJARD(日本アマチュア無線振興協会)に移り、さらに平成13年(2001年)にTSS株式会社に移行している。長々と「保証認定」について書き続けてきたが、要は加藤さんの開局時には面倒な電監による検査はなかったということである。

[屋根にグランドプレーンアンテナ] 

アンテナにはテレビ用に販売されていた300Ωのフィーダー線を約20mの長さに切り、8mほどのとど松の枝から6mほどの高さに立てた丸太まで張り、7MHz用として使った。「7MHzは良く乗ったが他の周波数は駄目。そこで、14MHz用に屋根にGP(グランドプレーン)アンテナを取りつけた。10Wの出力ながら広大な北海道の原野はアマチュア無線のロケーションとしては恵まれていた。

もっぱら、7MHz、21MHzで取り組んだ。「今、振り返ってみると自作であったがTVI(テレビ受信障害)など、近隣に迷惑をかけた記憶はない。隣家が離れていたことや、出力が10Wと小さかったことやテレビ放送が白黒だったことも理由だった」と分析している。同期の3人の仲間がいたことが刺激となり、お互いに競争心が強まり「当時は睡眠時間を削り、猛烈に取り組んだ」と言う。

開局とともにJARL空知支部に所属するとともに、JARL岩見沢クラブに入会した。岩見沢クラブは「昭和20年代の後半に発足したらしい」と加藤さんは聞いている。JARL地方クラブは昭和23年(1958年)の半ばに発足し始めている。まだ、アマチュア無線再開が俎上に上らない時期であった。

加藤さん開局3枚目のQSLカード。昭和42-43年目ころ

[岩見沢クラブ] 

JARLは盛んに全国各地にクラブの設立を要請していた。免許再開を地方のすみずみからも要請する組織づくりでもあり、また、再開後の活動をねらいあらかじめ勉強を進めておきたい、というねらいもあった。翌年の半ばまでに30を超すクラブが全国に生まれ、その後続々と各地で発足した。

加藤さんが入会した当時、岩見沢クラブのメンバーは「20名程度であった。4、5年経つと、日赤の奉仕団となり非常通信の訓練をしばしばやった」記憶があるが「クラブにはいろいろな方がおり、無線雑誌では得られない情報が聞けた」と言う。会長は佐々木啓(JA8QN)さんで「クラブの雰囲気は非常に自由だった」らしい。

クラブでは「モールスは先輩が教えたが、その他の勉強は自分でやるものだということから、幅広いアマチュア無線の話題や、情報の交換が行われた」と言う。やがて、岩見沢クラブは最盛期には100名程度に膨れ上がっていく。もう少し後の話となるが、加藤さんは「DXに夢中になると、クラブでの活動に時間を奪われるのが重荷になり」クラブを退会している。