[2アマとなる] 

加藤さんら3人は勉強を放り出してマイクの前に座り込む毎日を送ったが「夢中になればなるほど出力10Wでは我慢できなくなった。交信出来るのは北海道や東北であり、JA1、関東地区もほとんど難しい状態であった。また、海外はもちろん、国内の遠方との交信ではCW(モールス交信)が主流であり、電話級ではつまらない。電信級アマチュア無線を取ろうということになった」と言う。

高校生であり時間もあり、記憶力もある。翌昭和40年秋受験に出かける。しかし、加藤さんは「モールスの試験はアルファベットさえできれば良い、と聞かされており高をくくって電信の試験に臨んだ」らしい。ところが他の2人が合格したのに加藤さんは不合格。「悔しかった。そこで考えたのは電信級を飛ばして2アマを狙うことだ」と決めた。その後は悔しさをバネにしてモールスの習得に熱中する。

カセットテープレコーダーを買い、録音した信号を解読する勉強を繰り返す。欧文は比較的早くマスターしたが和文が不安であった。このため「受験を1度遅らせて試験を見に行った」と言う。このような万全な準備をしたため「自信をもって試験を受け」昭和41年(1966年)2級に合格。その当時高校生の「2アマ」は少なかった。

[本格的なアンテナ建設] 

翌42年(1967年)加藤さんはさらに1アマに挑戦し合格する。高校を卒業して間もなくである。ちなみに、加藤さんが1アマになったこの年の3月時点での北海道のアマチュア無線局数は1969局である。アマチュア無線技士の合格数と開局数とは異なるが、開局数は前年比で約70局増加し、その後の1年間では260局の増加となっている。加藤さんの記憶では「1アマで500W局は北海道で10局足らずだった」らしい。

実は加藤さんは2アマに合格し、出力を100Wに増力する変更届を出して準備を進めていたが、程なくして1アマになったために再び500Wへの変更届を出す。「変更を取り下げて、再び変更届を出したが、今思うと面倒な手続きも苦ではなかった。それほど熱中していた」と振り返る。リニアアンプを接続した設備での開局検査があったが「TVIを調べるだけの簡単なもので、問題なく合格となった」と言う。

「1アマ」となり、アンテナも14MHz、21MHz用を立ち上げる。出入りの電気店には毎日のように立ち寄り、入荷したメーカー製の無線機を見たり、アンテナが建っている家があれば訪ねていった。DXに本格的に挑戦するようになったのはこのころからであり「アワードにも興味をもつようになっていった」と、当時を話している。

[SSBに挑戦] 

加藤さんが1アマになったころ、すでにSSB電波が飛び交い始めていた。「とくに米国などとの交信ではSSBの送受信が必要となっていたため、SSB回路を自作しなければならない」と加藤さんは挑戦する。昭和42年(1967年)に、折り良く札幌でアマチュア無線機メーカーがSSB機器の発表会を開催、加藤さんは参加した。

SSBは、大正初期に原理が発見されたものの、実際に活用の可能性が確かめられたのは大正末といわれている。日本でも昭和10年(1935年)ころから業務用無線機への採用が検討され、昭和12年(1937年)に東京―鹿児島間に7.88MHzのSSB回線が設けられた。

太平洋戦争中米軍はSSB通信を多用したが、日本は戦時中に新技術の採用に熱心でなかったため、SSB技術の進展は遅くなり業務用でもアマチュア無線用でも本格的に回路製作が始まったのは戦後になってからである。SSB無線機の市販が始まったのは昭和40年(1965年)ころであり、それまでは当然、また、その後もしばらくは自作が続いた。

SSB信号の発生のためにはメカニカルフィルターを使用したが、実用化のためには測定のための測定器が必要であり、しかも測定器も自作せざるを得ず、多くのハムがチャレンジしたが、うまく出来なかった。当時、SSB回路の製作記事は関連雑誌にも多く取り上げられてはいたが、それでも自作は難しかった。加藤さんも結局は完成させられなかった。「SSBのエキサイターは出来たが電力増幅がうまくいかなかった」と悔しかったと言う。

SSB送信初期のころのシャック

[卒業] 

昭和42年(1967年)加藤さんは高校を卒業する。加藤さんは大学に進学するか、むりなら就職したかったが家業の農業を継ぐことになった。「継いでくれたら好きな無線機を買ってよい」という条件であった。結局、SSBエキサイターも市販品を求めた。しかし、それでも自作の楽しさは忘れられず、オールバンド機やリニアアンプを作り続けた。

家の農業を継いだ加藤さんはわずか4年でサラリーマンへと転職する。昭和40年代(1965年以降)前半のわが国経済は絶好調であり、有史以来の好景気「いざなぎ景気」が続いていた。自家用車、カラーテレビなどの大型消費財が売れ始め、消費が経済を押し上げた時代である。アマチュア無線局も増加を続け、昭和46年には全国で10万局を突破した。

JARLも次々と新しい展開をし始めた。「養成課程講習会」の実施についてはすでに触れたが、昭和43年(1968年)には名古屋に「東海地方事務局」が誕生した。その後の各地方本部に設立される「地方事務所」の先駆けであった。昭和45年(1970年)大阪で開催された世界万国博覧会では記念局が開設され、アマチュア無線の存在が大きくPRされた。

加藤さんがSSBに挑戦し使用したエキサイター