[通信ビックバン] 

加藤さんが独立して無線通信機販売、工事の事業に乗り出した昭和50年代後半は、新しい無線システムが開発され、免許された時期であった。高度経済時代が続いた結果、それにともない人や物の移動・流通が活発となり、連絡用に無線通信の必要性が高まったことに加え、新電子技術の開発が進み、高度な無線通信システムが可能となった。

昭和54年(1979年)に自動車電話が登場し、55年(1980年)にミリ波帯のデジタル防災用無線が許可され、翌56年(1981年)にはタクシー用のAVM(車両位置自動表示)システムが採用された。さらに57年(1982年)になるとMCA(マルチ・チャンネル・アクセス)システムがスタート。昭和62年(1987年)になるとパーソナル無線機が登場した。

この結果、昭和51年(1976年)3月に132万局であったわが国の無線局数は、平成元年(1889年)に500万局を突破し、その後、平成4年(1992年)まで、毎年100万局ずつ増加した。なかでもパーソナル無線は開始後2年で150万局に急成長していた。このような無線通信の大きな変化にともない、加藤さんの事業は順調に発展していった。

[防災無線/PHS] 

防災無線についての加藤さんの思い出は「予備的実験」のためにほぼ全道の交信可能状況を調べて回ったことである。まだ独立前の話しであり、独身であった加藤さんは「仲間と一緒に移動しながらの調査は楽しかった」という思い出がある。もう一つPHSサービス開始後の貢献がある。

自動車電話は,その後携帯電話、PHS(簡易型携帯電話)へとつながっていき、平成6年に携帯・自動車電話の「売りきり制」が始まり、急速に普及していった。一方、PHSは平成5年に実用化が認められた後、平成7年7月に東京と北海道の一部でサービスが開始された。それにともない加藤さんはモニターの役割を課せられ、半年間無料で使用して「どうして北海道が先行したのか分らないが、盛んに通話した結果を週1回のアンケートで回答した」と言う。

[戦前のハムとの交流] 

再び、アマチュア無線の話題に戻る。北海道には戦前に15人のハムがいた。戦後、改めてハムになったのはそのうちの4人である。年齢順に記すと橋本数太郎(戦前J7CA、戦後JA8RT)さん、姫野善一(J7CH、JA1BGJ)さん、渋谷兵衛(J7CT、JA8AE)さん、田母上栄(J7CF、JA1ATF)さんである。加藤さんは、このなかの3人のOMとかすかに接触がある。

「橋本さんとは2度ほど交信した記憶があり、渋谷さんとはどこかでお会いした」という。もっとも鮮明な記憶は田母上さんである。加藤さんは同軸ケーブルにバラン(変換器)を使うことを知った。何かの雑誌に田母上さんがバランの記事を書いていたらしい。そこで、加藤さんは「東京の田母上さんに電話してバランのことをお聞きした。親切に教えてくれた」ことを覚えている。

戦前、戦後も活躍した田母上さん

実は、加藤さんはこの連載の取材で初めて田母上さんが北海道の出身であることを知る。「それで分りました。とにかく親切に教えてくれたのですが、北海道のハムだったからですか」と納得した様子である。田母上さんは戦前も活躍したが、戦後もアマチュア無線再開のために貢献した方であり、この連載「北海道のハム達。原さんとその歴史」に詳しく書かれている。

[戦後初期のハムとの交流] 

北海道の戦前のハムはアンカバー通信をしたり、非常通信をしたり話題が多いがここでは触れない。加藤さんはまた、戦後すぐにハムとなった濱赳夫(JA8AA)さんや千葉憲一(JA8AC)さんとも交流があった。ともに、昭和26年(1951年)10月、戦後2回目の試験で1級に合格した人達であった。

濱さんは昭和28年(1953年)に当時のJARL北海道支部の初代支部長となったDXerであり、昭和47年(1972年)にDXに熱心な仲間を集めてHDXG(北海道DXギャング)を結成して会長となった。加藤さんはこのクラブの結成とともにメンバーとなったが「濱さんにはいろいろな面でお世話になった」という。

[よみうり1万局アワード] 

千葉さんは濱さんについて「自分のその時の技量と環境の範囲内で全力投球し、その上で新たな課題を設定して挑戦することが大事、という信条をもっておられた」と、平成4年(1992年)に発行された「道産子ハム奮闘記」に書いている。浜さんは昭和31年(1956年)の早い時期に米国・ロサンゼルスのテレビ局から招待を受けて、視聴者を驚かす番組に出演したことがある。

浜さんはどんな時、どんな国、どんなハムからの呼出しにも丁寧に応対し、ていねいにQSLカードを送るなどマナーの面でもハムの鏡だったらしい。後に「よみうり10,000局アワード」を全国でもっとも早く達成している。残念なことに昭和54年(1979年)に50歳の若さでなくなっている。

50歳の若さでサイレントキーになった浜さん

[青少年ハムの育成] 

一方の千葉さんは、戦前に免許を取る準備を進めていたが、太平洋戦争開戦にともなうアマチュア無線停止のために断念、戦後免許を取得したのは北海道学芸大付属中学の教師時代であった。千葉さんは教職にあったこともあり、とくに若い人の面倒をよくみ、勤務している中学校にアマチュア無線クラブを作ったりした。

青少年にアマチュア無線の楽しさを教えた千葉さん

同じ中学校に勤務したことのある吉川瀞(JA8KO)さんは千葉さんの思い出をこう記している。「青少年育成は学校内にとどまらず、札幌市内に限らず、全道に及ぶほどでした」と。加藤さんも「千葉さんの優しさがいつも思い出される」と言う。濱さん、千葉さんはともに北海道の戦後のアマチュア無線を育てた人といえるが、その詳細も、同様に「北海道のハム達。原さんとその歴史」に触れられている。