[JA8は加藤さん] 

再び加藤さんのハム生活に戻る。1kwの出力と優れた立地、豊富なアンテナ群など条件に恵まれた加藤さんの電波はよく飛んだ。このため、ひところ国内では「160mではJA8と言えばJA8CDT、加藤とまで言われるようになってしまった」こともあった。また、敬意を込めて「やり過ぎの加藤さん」と呼ばれることもあった。

アワードでもコンテストでも活躍していたからである。昭和59年(1984年)ころには米国ARRL主催のコンテストで「残念な体験をした」と言う。最初からコンディションが良くて、快調に交信が進んでいたが「途中で仕事の関係の電話があり、6、7時間、無線から離れてしまった」らしい。仲間の何人から後で「途中から聞こえなくなった。どうしたのか。立派な成績になったと思うが」と言われた。

事実、その時点ではすでに1000局を超える交信をしており、後に発表された成績を見ると「アジアでNO1になれた可能性が高かった」と言う。日本の「オールJAコンテスト」でも「1Day WAC」でも加藤さんは「多分記録が出来ていたと思うが関心がないので」と、あまり気にしていない。

1990年東京で開催されたハムフェアの会場で左から2人目が加藤さん

[MIX355/335エンティティ] 

50MHzでは1kwに増力してから海外との交信も増えていった。しかし「皆さん早くからやっており、記録をもっているだろう。WACにしてもDXCCについても取得順位は遅くなっているだろう。どうせ遅いなら申請も急ぐ必要はない」と、加藤さんは考えていた。ところが、申請してみると「DXCCは結果的に北海道での最初の達成者になってしまった」と言う。平成14年(2002年)のことである。

今年(2006年)8月末現在、1.9MHzではWACとDXCCは200エンティティ、50MHzはWACとDXCCは120エンティティに達しており、MIX(ミックス)のDXCCは355/335エンティティである。実はこの数字も無理に調べてもらった結果、やっとわかった。

加藤さんのアマチュア無線に対する優先順位は「無線機の自作の楽しさ、アンテナの工夫、次いで交信」である。このため「アワードは結果であり、あまりこだわらない」と言う。いくつかの理由がある。「日頃交信していると、記録を達成しているだろうと思われる方が何人もいるが、申請をしていないらしく名前が見当たらない。それを考えるとあまり賑々しく申請したくない」と言う。

[原本部長との邂逅(かいこう)] 

そうはいうもののDXerとして加藤さんの活動が知られるようになると、周囲は放っておかなくなった。昭和49年(1974年)から1期間、JARL空知支部の監査委員長に選出される。不法電波を出したり、電波法に違反するハムをチェックする役割である。しかし「同じ仲間を注意することはつらいことだった」らしい。 違反者にはハガキで注意することになっているが「学生など年下のハムの場合は良いが、年長の方にはつい遠慮勝ちになってしまった」とつらかったことを思い出すと言う。このようなJARLの活動を通じて、加藤さんは現JARL北海道地方本部長の原恒夫(JA8ATG)さんと知り合うようになる。

学校教育、ボランティア、JARL活動で多忙な原恒夫・JARL北海道地方本部長

教師であった原さんは、一貫して辺地の学校や特殊学校を希望して生徒の教育に当たってきた。また、アマチュア無線を通して、青少年の教育に熱心であり、このような熱心な教育は何度も教育界から注目されて、表彰を受け、マスコミにも取り上げられてきた。加藤さんが原さんを知ったのは「原さんがタイの日本人学校に行かれたということを聞いていた」ということから、知ったのはそれより後のことである。

[日本ユニセフハムクラブ] 

原さんは当時の文部省が国費で海外の日本人学校に教師を派遣することになった第1回に応募し、3年間の任期を終えて昭和50年に帰国。江差町の江差小学校に勤務し「国際理解教育」に力を入れ、その一環としてユニセフ(国連国際児童緊急基金)支援活動を始めた。昭和56年(1981年)原さんらはユニセフへの支援活動を呼びかける目的で、タイ・バンコクへペディションに出かけた。

原さんはこのバンコクでのユニセフ支援活動を契機に「日本ユニセフハムクラブ」を結成し、加藤さんをメンバーとして誘う。しかし、当時の加藤さんは会社を立ち上げて間もないこともあり多忙であった。「申し訳なかったが原さんの期待に応えて活動できず、しばらくしてメンバーを辞め」ることになった。

加藤さんは、どうも晴れがましいことが好きでない性格らしく、また、このころはすでに30代、40代でもアマチュア無線では「若造」の時代になっていた。DXでは実績もあった加藤さんであるが地元のクラブでの活動では遠慮していた。このため、積極的に活動していた原さんと親しくなるのはもう少し後になってからである。

[栗沢村の先輩ハム] 

実は原さんは加藤さんと同じかつての栗沢村に住み、そこから岩見沢東高等学校に通っていた昭和36年(1961年)に免許を取得していた。原さん一家は教職にあった父親の転勤にともない短期間で移動を繰り返しており、加藤さんが高校に進学したころ原さんは大学に進学し栗沢村を離れていた。「栗沢村の先輩ハム」であることを知ってから加藤さんは原さんに親しみをもつようになったという。

平成元年ころの加藤さんのシャックと加藤さん

原さんは昭和53年(1988年)に「北海道ハムフェア」を企画して開催するが、そのころにはあまり親しくなかった加藤さんに原さんから「1度遊びに来ないかと」連絡があった。原さんがB型肝炎で肝臓移植を受けて療養中の時であった。平成13年(2001年)のこの出会いが加藤さんの今日を決定付けることになる。