[ギニア] 

加藤さんはこれまで何度か海外のDXペディションに出かけている。最初は昭和57年(1982年)のギニア。この時はFEDXP(極東DXプロイター)の会長である米村太刀夫(JA1BRK)さんから誘われたものであった。FEDXPは昭和35年(1960年)に日本で生まれたクラブで、当時の「新2級」のハム達を中心に創設されたといわれている。

米村さんは昭和55年(1980年)に、FEDX発足20周年を記念して海外ペディションを企画、日本人ハムが電波を出したことのない地域を検討していた。その結果、日本ギニア友好協会が計画したギニア訪問議員団とともに出かける段取を取りつけた。民間の訪問は難しかったからである。

ところが、訪問団の計画が再三延期となり、結局、昭和57年(1982年)の5月の連休に米村さん、加藤さんの2人が出かけることになった。このギニアへのDXペディションについては、同協会の事務局も記憶しており「正式には協会の事業として出かけたのではないため、記録には掲載されていませんがギニアから未だ日本人が電波を出したことがないのでと依頼された」と話してくれた。

ギニアでの運用。右が加藤さん

[パイル状態] 

2人は事前に現地に免許を申請し許可を得て、無線機、リニアアンプを携えて出発。自治大臣、法務大臣を勤めた秋田大助議員らと、途中で合流してギニアに入国している。現地ではNECの関係の仕事に携わっている日本人が通訳をしてくれ、1周間近くホテルに滞在し。「コンデションが良かったため、約3000局と交信し、うち半分がJA局だった」と言う。

一時はパイル状態となり「初めて呼ばれる立場に立ったが、この時に運用技術がレベルアップしたように思う」と、貴重な体験を思い出している。ところが帰りは議員団とは別であったためか出国の空港で「徹底的に荷物の検査をされて苦労した。しかも、航路は1度欧州に出て、さらにアンカレッジ経由で帰国するなど道中は疲れた」と当時を語っている。


ギニアのDXペディションでのカード

ちなみに米村さんは大学卒業後、カーメーカーのテストドライバーとなり、その後は車の評論家となり現在は「日本カー・オブ・ザ・イヤー」の審査員の一人になっているハムである。「無線機は市販品を使う時代になっているが、やはりハード面の知識ももってチャレンジする精神を忘れて欲しくない」と言う信条の持ち主である。

[ケニア] 

加藤さんは翌昭和58年(1983年)3月には、同じくアフリカのケニアに出かけている。「その時は最初からペディションが目的であり、事前に免許申請をし出かけた。1週間現地で頑張ったが1000局程度の交信にとどまった」らしい。この時は「JICA(当時の国際協力事業団)の中村哲(JE1JKL)さんが駐在しておりお世話になった」という。

加藤さんは中村さんとはかつて交信している間柄であり、すぐに打ち解け、宿も「中村さんのつながりで現地にいたアメリカ人の家にやっかいになった」と言う。ギニア、ケニアの海外ペディションを経験した加藤さんは「しばらくするとまた出掛けたくなるが、仕事が多忙になり、その後は機会がなかった」と残念そうだ。

[パイルをさばく] 

「パイルアップを経験して運用のノウハウを学んだ」という加藤さんであるが、そのノウハウはその後のコンテストや特別局の運用に生かされている。「かねてから次ぎから次ぎにコールをさばくDXerの運用を尊敬していた。そうなりたいと願望していただけに、あの経験はうれしかった」と言う。

そのノウハウとは何か。加藤さんは「とにかく慣れること」と言う。場数を踏むことにより慌てることなく冷静に対応出来るからである。その結果、バンド別、国別による伝播状況がわかってくる。「時期によっても状況が異なるが、それが頭に入り、手に取るように世界の状況が知れるようになっていく」と説明する。

ケニアでは何人かの欧米人ハムとも会った

[記憶力] 

不思議なことに加藤さんはDXCCの達成エンティテイ数やWACやその他のアワードの完成年月などは記憶していないが、電話番号は100程度記憶していると言う。したがって、ペディションや特別局の運用の最中は「すでに交信したかどうか500局程度までならコールサインが分る」と言う。

ただし「携帯電話になり、番号が記録されるようになってからは覚えられなくなったし、コールサインもパソコンに入力するようになってからは全く覚えられない」らしい。結局、手でノートやログに集中力を高めながら記録する動作が記録に結びつくためかと思われる。しかも、それも場数を踏むことにより向上するらしい。

加藤さんは今年(2006年)7月1日から7月9日までIARU(国際アマチュア無線連合)のワールドチャンピオンシップの特別局8N8HQ局を運用した。「毎年の行事であり、1度やってみたかった」からである。全国では6局が設定され、北海道では3人で運用した。「約3000局と交信できた」と満足そうである。