[戦前-戦中の少年時代]

昭和27年(1952年)10月2日、新設したアマチュア無線局の落成検査に合格した円間さんは、翌10月3日に九州の板橋康博(JA6AA)さんと7MHzで初交信をした。戦後すぐにラジオに興味をもち、昭和24年(1949年)に短波を聞いてアマチュア無線にあこがれてから3年がたっていた。コールサインはJA2WA(後にJA9AA)、北陸では戦後のハム第1号の誕生であった。

円間さんは昭和6年(1931年)5月、福井県坂井郡雄島村に生まれた。現在は合併により三国町となっているが、三国港は明治の中ごろまで北前船の寄港地として栄えた場所であり、円間さんの少年時代にはわずかながらもその名残があった。村内には、日本海に突き出た東尋坊の奇岩あり、近くの雄島と一対になって、全国的に有名な景観を形作っている。すでに日中戦争が始まっていた昭和13年(1938年)、円間さんは雄島尋常小学校に入学する。雄島尋常小学校は大正10年(1921年)に周辺の3つの小学校が統合して発足、高等科を併設していた。

円間さんの旧制中学時代(右下)---戦争に翻弄された

3年生となった昭和16年(1941年)12月8日、大本営の発表により米国など欧米との開戦を知る。家には当時としては珍しくトランスレスのラジオがあり、歌謡曲、童謡、浪曲、講談などが放送されていたことを記憶しているが「戦争の情況は小学生のため良くわからなかった」という。それでも「日本帝国陸海軍の勝利を聞かされていたので、鬼畜米英の撃滅と大東亜共栄圏の建設を固く信じていた」少年時代であった。

昭和19年(1944年)頃、円間さんは小学校近くの台地での光景を覚えている。20人ほどの兵隊が、高く立てた棒に水平に取りつけた十字状のものを回転させており、そこに5cm四方の銀紙が空から降ってきた。後年になって「十字状のものは回転式のVHF指向性アンテナで、銀紙は米軍の飛行機が電波探知機(レーダー)での探知を妨害するために散布したらしい」と思い当たる。

[勤労動員の中学時代]

昭和19年に県立三国中学に入学。入学時には5年生まで揃っていたが、その後、次々と「学徒動員」により、名古屋方面の軍需工場に出掛けることになり、終戦時には円間さんらの2年生が最上級生になっていた。「学徒動員」は、中国大陸での戦争拡大にともない、不足し始めた農村、工業の労働力を、学童によって埋めるための国家政策であった。昭和13年6月から始まり、その頃は夏休み前後の数日間だけのわずかな動員であった。

太平洋戦争が始まると動員は強化され、昭和19年には中学校以上の生徒は授業を停止され、全員が何らかの労働に従事することになる。1、2年生は食料増産のために農家の手伝いに行ったが「仕事は簡単で白米の握り飯が昼ご飯に出たのがうれしかった」という。ただし、冬季になると近くの芦原町にある陸軍飛行場の除雪作業があり「作業はきつく、終わってから空腹で帰るのがつらかった」ことを思い出すという。

授業は厳しく「答えられないと容赦なくムチが飛んできた」という。当時「敵性語」といわれていた英語の学習でも鍛えられ、毎日軍事教練、銃剣術、柔道、剣道のどれかの武術でしごかれた。しかし、円間少年は授業はどの科目も好きだった。

昭和20(1945)年7月19日午後10時頃、福井市が米軍の爆撃にあう。爆撃機B29の編隊120機により、福井市の95%が焼失し、1,600名の犠牲者が出た。「20Km離れた東北方面の空が真っ赤に見え、時々爆音が聞こえた」ことを記憶している。1週間後、円間さんら2年生は福井県庁に後片付けに出掛けることになった。「途中で見た市内の惨状は今でもはっきり覚えている」という。

福井空襲から約2週間後の8月2日午前1時半、富山市がB29の編隊174機に爆撃される。富山市のほぼすべてが焼失し、3,000名近い犠牲者が出たが、正確な人数はわからずじまいである。「富山は離れているので大丈夫と思ったが、家の上空を編隊を組み、飛行灯をつけたまま低空で飛んでいくB29を恐怖をもって眺めた」ことを覚えている。

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[終戦 SWLを開始]

8月15日終戦。天皇陛下の「玉音放送」は家で聞く。聞きづらい内容であったが「ポツダム宣言受諾」「忍びがたきを忍び」の2カ所が聞き取れ、負けたことを知り愕然とする。終戦後には手っ取り早い娯楽としてラジオ放送が人気となる。3年生になった円間さんは級友に紹介されて「物理クラブ」に加入する。このクラブで先輩の指導を受けながら、鉱石ラジオから初めて、単球、並4、スーパーヘテロダイン方式へと次々とラジオを組みたてることに熱中する。

深夜、地元の放送局の放送が終了すると、同じ周波数を使用している局の試験放送が各地から聞こえ出し、電波の遠距離伝搬を初めて知る。また、隣国からの電波や三国沖の漁船同士の無線交信に興味をもつ。ほどなくして、円間さんは短波が受信できる短波用コイルのパックを求めて、短波を聞くようになる。