JARLはアマチュア無線の再開に向けて、戦後すぐに活動を開始し、昭和21年(1946年)に機関誌として「CQ ham radio」を発刊し、SWL活動、クラブや研究会づくりを奨励したことは先に触れた。各地に誕生したクラブや研究会は、JARLが公認することになり、「福井県アマチュア無線研究会」は、九州・大分で長野正(後JA6XFM)さんが主宰した「大分無線同好会」とともに発足が早く、公認されるのも早かった。

[マルコーニの無線通信]

円間さんが知り合った田畑さんをきっかけに、戦前の北陸のアマチュア無線の歴史へと筆を進める予定であったが、円間さんから提案があった。日本の無線通信の歴史の上で画期的な発明である「TYK無線電話」「八木・宇田アンテナ」に、ともに北陸出身者が携わっていたというのである。そのため、わが国でアマチュア無線が誕生する前の2つの話題をしばらく続けたい。

世界の無線通信の開発は、イタリアのマルコーニによって行われた。1895年に彼は6Kmの距離でのモールス信号の通信に成功した。この時、使用したのがヘルツの発振器の改良品と、コヒーラ検波の受信機だった。ヘルツは、インダクションコイルと火花放電器を組み合わせて電波を作りだし、電波が光と同じ性質をもっていることを証明した。

マルコーニは、空中線(アンテナ)から、ヘルツの発振器を挟んで地面に放電する回路を開発、初めて遠距離通信を可能にした。マルコーニ以前にも、実はわが国の長岡半太郎、アメリカのテスラ、イギリスのクルックス、ヒューズらが電波の遠距離通信を狙って研究に取り組んでいたが果たせなかった。

マルコーニの成功はアンテナとアースを活用することによってであり、その後も彼はアンテナの高さや形状を研究、同時にインダクションコイル、コヒーラ検波器の改良を続けた。その結果、1901年には海上2700Kmの通信に成功し、長距離無線通信の実用化を完全に達成した。マルコーニは、優れた技術開発者であったが多分に商才ももち合わせていた。イギリスと米国に会社を設立し、世界の船舶無線網をつくることを計画、海岸局を増やしていった。

[わが国の無線通信研究]

一方、わが国でも明治18年(1885年)頃から工部大学校(東京大学の前身)の志田林三郎教授、電気試験所などで、無線通信の本格的研究が開始されていた。この頃は、導電式無線電信の実験であり、実験としては成功したといわれている。次いで、明治30年(1897年)頃からヘルツ波無線通信の研究が始まる。この年、マルコーニの無線通信開発が伝わってきたものの詳細は秘密であり、つかめなかったらしい。

電気試験所の松代松之助電信主任は、模索状態の中で開発を進め、翌明治31年(1898年)5月に東京湾で1.8Kmの無線通信に成功。通信距離は徐々に伸び、明治36年(1903年)には1170Kmの通信が可能となった。これに対して海軍も明治32年(1899年)にマルコーニの無線通信の研究を開始することになり、「無線通信調査委員会」を設けた。

この委員会には松代教授も加わり、明治35年(1902年)に34Kmの通信に成功。この技術は日本海海戦で使用された「36式無線電信機」の開発につながっていく。民間でも無線通信の開発は明治30年代に活発となり、なかでも安中電機製作所は世界的にも優れたインダクションコイルを開発し、「36式無線電信機」には、同社の部品が多く使われたといわれている。

[TYK式無線電話機]

このように、世界主要国では活発な無線通信の開発競争が始まった。しかし、いずれも電信であり、音声を伝送する電話の技術の開発は難しかった。世界ではじめて、その開発に成功したのが電気試験所の鳥潟右一、横山英太郎、北村政次郎らのグループであった。開発に成功したのは明治45年(1912年)であり「TYK」は、これら3名の頭文字から名付けられた。

「TYK式無線電話」の回路図

音声を電気信号に変換し、その電気信号を音声に復元する技術は、この当時普及が始まっていた有線の「電話」によって確立していた。TYKの3人はその伝送を有線から無線で行うことを模索した。マルコーニの火花式発振器では安定した周波数が得られにくく、電信の伝送には差支えがないものの、音声の伝送には問題となった。

TYKの3人は、複式瞬滅火花による持続電波の発生に成功する。従来に比較して、火花間隙を狭くするとともに、その間隙の間隔を調整させることにより成功した。大正3年(1914年)には、それぞれ7Kmの距離のある三重県鳥羽―答志島―神島間で実用化を図った。これら3地域は大正5年(1916年)に電話局を設けて、公衆電話業務を開始している。

「TYK式無線電話」の実物写真