[三国生まれの横山英太郎さん]

「TYK無線電話機」を開発した3人の1人である横山英太郎さんは、明治15年(1882年)に福井県三国町の町外れの製紙、養蚕業を営んでいた家に生まれた。三国小学校へは30分ほど歩いて通ったが、積雪の冬場は「ことにつらかった」と、後年の思い出に書いている。このため、小学校の近くにあった母親の実家に「しょっちゅう泊っていたような気がする」という。

横山英太郎さん

福井中学校を卒業した3月に東京に向う。当時、福井中学卒業生は、金沢にある第4高等学校に入るのが普通であったが、横山少年は東京の第1高等学校を目指す。その理由については「どういう考えだったかはっきり覚えていない」と記している。7月の受験に備えて正則英語学校、研数学館に通うが、不合格となる。

再び受験にチャレンジし合格。その受験勉強の1年間は猛烈に勉強したらしく「一年の収穫は英語の勉強だった。こんなにまで勉強したことは一年を棒にふったよりも、その何倍か何十倍かの徳をしたと思っています」と、当時を振り返っている。

3年間の1高生活の後に東京帝国大学に入学したが、「大学生活は平々凡々たるものだったので別に話はありません」と綴っている。明治41年(1908年)に卒業し、電気試験所に就職。同試験所に入所した理由は特別なかったようであるが「官庁入りを知らず知らずのうちに考えていたのでしょう」という。

[寝食を惜しんでの開発]

電気試験所に入った横山さんは鳥潟さんの無線班に所属、そこに北村さんの他、佐伯美津留さん、丸毛登さんなどがいた。最初はコヒーラ検波器の研究を手がけたが、明治39年(1906年)に開かれた第1回国際無線電信会議の結果、千葉県の銚子に海岸局を設け、天洋丸に無線機を積み込んだりした。

リーダーの鳥潟さんは東京帝大を首席で卒業した秀才であり、コヒーラに代わる鉱石検波器も発明している。火花式で電信伝送技術を習得した世界主要国では、当然のことながら音声伝送に躍起となって取り組んだが、TYKの3人も時には寝る間を惜しんで開発に取り組んだ。この頃の日本は、世界の大国であったロシアに戦勝し、世界の先進国の仲間入りを果たしつつあり、経済、産業の動きは活発であった。

当然、技術開発分野でも「他国に負けるな」との高揚した気分が広がっており、3人はその期待に答えた。ちなみに、無線班の1人である佐伯さんは検波器の開発に従事したため、送信機の開発には加わらなかった。TYK式はやがて真空管式に変わるが、3人は真空管式送信機開発でも、世界各国とひけを取らなかった。大正8年(1919年)に鳥潟さんは38歳で電気試験所の所長に抜擢されたものの、12年(1923年)、42歳の若さで亡くなった。

一方、横山さんは昭和7年(1932年)、50歳を境に電気試験所を退官して日本無線電信株式会社に入り、同社の技術開発をリードした。電気試験所時代、仕事には厳しい方であり部下はいつも緊張して仕事をしていたといわれている。しかし、同時にできそうもない仕事は依頼せず、あまり男女の差別もしなかった人柄だった。

台湾への出張の折りの記念写真(右から2人目が横山さん)。大正3年

[富山・下新川郡生まれの宇田さん]

TYK送信機が開発されてから約15年後の大正15年(1926年)、同じく世界的な発明である「八木・宇田アンテナ」が開発された。この開発は、東北大学教授であった八木秀次さんと宇田新太郎さんによって行われた。宇田さんは明治29年(1896年)、富山県下新川郡の舟見で生まれた。父母ともに小学校の教師であり、家族は4歳の時に新庄に移るが、その頃は父親は校長、母親は訓導となっていた。

新庄尋常小学校を卒業した宇田少年は、その後母親の勤務の都合で魚津に越したため、魚津中学に入学。同中学を卒業すると、広島高等師範(現・広島大学)に進学する。当時、広島高師は入試を行わず、各府県からの推薦による入学制を取り入れていた。「入学して感じたことは各県の中学校、師範学校からの推薦された者だけに、皆良くできたことだ」と、宇田さんは後に思い出を書いている。

大正7年(1932年)、高等師範を卒業すると、宇田さんが奉職したのは長野県・大町の県立大町中学であった。しかし、宇田さんは3年で退職する。さらに学問の道を極めたかったためであり、高等師範卒業生にも道が開かれていた東北帝国大学電気工学科に入学する。大正10年(1921年)のことである。

大正13年(1924年)に卒業した宇田さんは八木さんの研究室に残る。八木さんとの出会いである。八木さんはドイツのドレスデン大学に留学、現在のUHF波であるBK(バルクハウゼン・クルツ)振動を学び、東北大でその研究を広げていた。宇田さんも最初はBK振動に取り組むが、やがて、プッシュプル回路の研究に替える。

中学1年の宇田さん。左は弟の和雄さん