[八木・宇田アンテナの開発]

宇田さんが、プッシュプル回路の研究に乗り出したのは、BK振動より出力を大きくできるからであった。場所を替えて実験を繰り返しているうちに、電波に方向性(場所による強弱)があることを知る。いわゆる指向性である。この指向性を知ったのが超短波アンテナの研究にのめり込むきっかけとなる。

宇田さんは八木さんが大阪帝大に転任するまでの10年間、講師として、後に助教授として行動をともにする。「八木・宇田アンテナ」の開発は講師時代である。電波を一方向に集める研究を始めた宇田さんは、まず、一本の金属棒を主アンテナとして、その後ろに電波を反射して主アンテナに集める金属棒(反射器)を置いた。

実は、ここまでは当時わかっていたことであり、宇田さんが発想したのは主アンテナの前に金属棒(導波器)を置くことであった。導波器を数本並べることによって、電波をさらに集められることを知った宇田さんは、効率の良い反射器、導波器の長さの分析を始める。その結果、反射器の長さは半波長または、少し長くし、導波器は半波長より少し短くすることが最良であることをつき止めた。

昭和18年当時の宇田研究所。前列左から2人目が宇田さん

この「八木・宇田アンテナ」の開発については、当時の東北大の助手や学生も関与したらしく、助手の杉本武雄さんが、電波の指向性を八木さんに報告、また、学生の西村雄二さんが、導波作用を見つけ出したとも言われている。いずれにしても、これらの技術情報を総合し、八木さんが最終的に宇田さんにヒントを与えて生まれたのが、この「八木・宇田アンテナ」といえそうだ。

[海外で実用化]

「八木・宇田アンテナ」は、アマチュア無線通信のアンテナとして欠かせないものであり、それ以上にテレビ電波受信に不可欠なものである。それほど、画期的な発明でありながら、わが国では評価されず、実用化も遅れていた。八木さんは国内外の学会で盛んにこのアンテナの開発発表を行ったため、海外の先進国はこのアンテナを評価し、実用化を進めた。

太平洋戦争の初戦、日本軍はシンガポールを占領したが、そこで初めて日本では使われていないこのアンテナを英国軍が使用しているのを知り、びっくりする。戦線が拡大するにともない米軍と接触の頻度が増え、やはり米軍も同じく「八木・宇田アンテナ」を盛んに活用していることを知らされる。米英軍側は、逆に日本がこのアンテナを使用していないことを知ってびっくりする。

『八木・宇田アンテナ』は、かっては「八木アンテナ」と呼ばれ、海外でも「YAGI」と名付けられていた。八木教授は「論文発表などは二人の連名で行った」といい、事実、学会発表でもそのようにしてきた。しかし、八木さんが1人で出掛けた米国での講演などでは、どうしても講演者の名前が印象に残る。さらに、八木さんが日本と英国の特許を八木さん1人の名で出願した事実もある。

宇田さんは「八木さんが八木アンテナという名の会社を設立したことが、アンテナの名称が“八木”となる決定的なものとなった」と、後年語っている。しかし、事情を知る人達が「八木・宇田アンテナと呼ぶべきだ」と、支援をしてくれたこともあり、最近では「八木・宇田アンテナ」と呼ぶのが普通となった。

東北帝大電気工学科大正13年卒業の50年同窓会。前列左が宇田さん

昭和7年(1932年)から8年(1933年)にかけて、宇田さんは米国に派遣された。日本電気(現NEC)の創業者である岩垂邦彦さんが若い優秀な技術者を派遣する制度を作り、実施していた。宇田さんは精力的に全米各地を回り、スタンフォード大学、ATT(アメリカ電信電話会社)ベル研究所、コロンビア大学、MIT(マサチューセッツ工科大学)ハーバー大学、GE(ゼネラルエレクトリック社)ウェスチングハウス社などの大学、有力企業を訪問した。

これら大学、企業では、当時発展著しい電気、電子の第1級研究者に会い、意見を交換した。しかし、その米国に日本は戦争を仕掛ける。昭和16年(1941年)から20年(1945年)の3年半以上に及ぶ太平洋戦争も半ばを過ぎると、学生は工場に勤労動員され、宇田さんの研究所も山形県の高擶村に疎開する。やがて、仙台市内の中心部は全焼するが大学は無事であった。

国内の「八木・宇田アンテナ」に対する関心が薄いことについては触れたが、それでも実用化を図る企業が生まれた。戦前、日本電池の東北の代理店が「日電電波工業」を発足させ、しばらく後に日本電池も出資し合資会社となる。しかし、電波通信技術のない日本電池は経営を日本電気に譲る。

戦前、日本電池の島津源蔵社長、日本電気の丹羽保次郎社長は、ともに「10大発明家」といわれ親しい間柄であった。戦後「日電電波」は「日電製作所」と社名が変更され、昭和47年に20周年記念式が行われ、宇田さんも出席された。