昭和13年(1938年)11月30日、漢口で「前線JARL大会」が開かれた。朝日新聞社社員であった柴田俊生(J2OS)さんは、無線伝送装置の実験のため、漢口に出張するが、現地でJARLのメンバーと再開する。そこで、何人かが集まりJARL大会としゃれてみたものであり、三本義喜(J2MU)山本信一(J3CS)中塚、西丸、武田国雄(J2MY)岸上さんらが写った写真が残っている。

「前線JARL大会」の写真 JARL発行「アマチュア無線のあゆみ」より

そこには木下さんは加わっていない。一方、田畑さんは昭和13年か14年に兵役のために帰還しており、中国での生活は極めて短かった。このため、現地での記録は残っていない。この時、一緒に帰国したのが横浜市の岡村久寿(J2NB)さんで、それぞれ兵隊検査を受けたものの召集されなかったため、埼玉県坂戸の航空送信所に終戦まで勤務した。

田畑さんについて触れるならば、昭和13年(1938年)1月3日に行われたJARLの「QSOパーティ」に参加している。1月3日といえば「下志津」での教育が終わり、戦地に出発するまでのつかの間の日である。このパーティには45名が参加、ハンディをつけたポイント制で争われ、田畑さんは25局と交信、13位だった。

この「下志津」グループとは別に、昭和13年7月15日に北支航空部隊通信要員として召集された77名がいる。ハムだけではなかった模様であるが、中野電信第1連隊に所属した後、7月22日に東京を出発し27日に北京に到着、そこで「下志津」グループと合流している。戦時中、中国を中心に活躍したハム達については「関東のハム達。庄野さんとその歴史」「東海のハム達。森さんとその歴史」でも、それぞれ触れている。

[免許停止にならなかった]

日本がハワイの真珠湾を奇襲したのは昭和16年12月8日であったが、それ以前からアマチュア無線への規制が厳しくなっていた。全国一律ではなかったが、昭和15年(1940年)頃から免許の更新が認められなくなり、16年の2月を最後に免許もされなくなった。戦争が開始されると、通信は禁止され、送受信機に封印が貼られたり、機器の買い上げや供出が命じられた。

ただし、地域により、また、軍への協力具合により処置はさまざまであった。開戦時の措置が徹底されたのはやはり東京であり、開戦と同時に「東京都市逓信局」と、東部軍そしてJARL代表者が同行して、各アマチュア局を訪問し機材に封印するとともに、機材や部品の提供をお願いした。その後、無線機器の不足にともない逓信局は、再び機材の提供を呼びかけている。この時は「献納または売却のいずれも可」と書面で通達している。

東京の場合は「売却の場合は相当の価格をもって買い上げる」と記され、機材の用途として、軍用、工業学校電気通信科新設にともなう教授用、その他国家的緊急施設用としている。そして「賛同者に対しては将来実験可能の時期に到達したる場合は、優先的に施設許可を与えられるとともに、現在指定の呼び出し符号等はこれを保留せらるるものなること」と優遇措置をほのめかしている。

地方では、これほど徹底していなかったケースもあり、開戦後しばらくは通達がなかったため、海外と交信していた人もいる。また、民間企業勤務のハムでも軍用無線に使用される部材の開発上、電波の発射が必要な場合や、国防上無線通信で協力する場合は免許が停止されなかった。

北陸では、亡くなられた浅井さんが昭和13年(1938年)11月に廃止となっているほか、木村さんと木下さんが14年(1939年)3月、松岡さんが15(1940)年7月に失効している。これに対して、吉本さん、田畑さん、古田さんの3人の失効や廃止の記録が見つからなかった。

はっきりしているのは江戸さんであり、昭和17年(1942年)1月10日、18年1月29日にそれぞれ「延伸願」が認められた。このため、昭和19年(1944年)3月4日までの許可をもらっていたが、前年の18年7月1日付けで名古屋逓信局長から使用停止命令を受けている。

戦前のハムの集まりである「RAINBOW会」は平成13年(2001年)に発行した「Rainbow News」No20を特集号として、戦時中の生活ぶりを寄稿してもらっている。その中で、古田さんは「戦時中も封をされることなく、受信機で天下の情勢を国際的に聞いていました」と書いている。推定ではあるが、吉本さんは三菱電機で真空管の開発に携わり、田畑さんは航空送信所勤務であったため、取り消しなどの処分とならなかった、とも考えられる。

もう一つの北陸の特徴は、戦後になってから4人もの方が再免許を受けていることである。浅井さんは戦死しており、木村さんは戦後の産業経済混乱期に必至に企業再建に取り組んでいた。また、松岡さんは情報がわからない。したがって、吉本さんと木村さんの2人を除いて全員が戦後アマチュア無線が再開された時に、それぞれが「2文字コール」をもった。

江戸さんが昭和6年に自作した送信機