戦前のハムの多くは、戦後にアマチュア無線が再開されても再び免許を取るケースは意外に少なかった。再びキーを叩き、マイクを前にした人は23%程度であり、4人に1人もいなかった。戦時中のハムの戦病死は一般の人と比較して、少なかったように思う。レーダーなどの無線機器開発に携わるため国内にとどまった人も多く、一方、戦地でも司令部や本部に所属する業務に就き、危険な前線勤務が少なかったためとみられる。

命は永らえても、戦後の貧窮生活の中でアマチュア無線を趣味とする余裕がなかったのが、再開されても免許を取得しなかった最大の理由と思われる。中には、無線技術を戦争の道具に使用したことから、再びハムになることに嫌気がさした人もあったろうし、高齢のために断念した人もいたであろう。このような状況の中で、北陸は異例だった。

[戦前のハムの戦後]

田畑さんは先に触れた通り、福井県の芦原温泉で電気店を営みながら「福井県アマチュア無線研究会」を主宰し、後輩の世話をした。電気店の仕事は民間ラジオ放送の開始、その後のテレビ局開局にともない、ラジオ受信機やテレビ受像機が売れ多忙であったらしい。それでもアマチュアのために無線機用部品を仕入れて置いてくれたり、さまざまな質問にも答えてくれたため、店はラジオ少年の“溜まり場”になっていた。亡くなられたのは昭和43年2月で、50歳の若さであった。

木村さんは、日本抵抗器製作所の復興に邁進する。昭和20年(1945年)半ばから30年(1955年)代にかけては、各地に営業所を設けるとともに、地元・福光のほか東京、大阪、大分に工場を設立した。その一方では技術開発にも力を入れ、昭和37年(1962年)には全国発明表彰で「発明賞」を受賞している。アマチュア無線から離れていったのはやむを得なかった。

木村さんが腕をふるって経営を拡大した日本抵抗器製作所本社

木下さんは、先に触れたとおり南京の部隊に勤務していた昭和14年(1939年)3月に「アマチュア通信の使用中止の通知が名古屋逓信局からあったと連絡を受け」家から中止届けを提出してもらった。復員後「その書類を捜してみたが見つからなかった」と「RAINBOW NEWS」に報告している。木下さんはその後、地元の北陸放送に定年まで勤務した。

千葉の「下志津」で教育を受けたグループは、戦後だいぶ経ってから連絡を取り合い、一部のメンバーは時々、旅行を楽しんだ。平成4年(1992年)10月、木下さんは西丸政吉(J2MN、J6DK、JA0CA、JA1NCA)さん、青木貞雄(J6CI)さん、木村茂幸さんらと、下呂温泉に出掛けた。同じ仲間であった上村浩一(J2MA)さんが直前に亡くなり、その「冥福を祈る」旅ともなった。

[次々と故人に]

古田さんは、戦後も地元で印刷業を営んでいたが、昭和30年(1955年)に第2級アマ免許を取り、さらに昭和55年(1980年)、63歳の時に第1級アマ免許を取得した。晩年は天体観測も趣味となり、日蝕観察のために小笠原へ行ったり、ハレー彗星を見るためにオーストラリアのバサーストまで出掛けるなど、旅行を楽しんだ。

仕事を譲り「これからせいぜい空で頑張ろうと思い、シャックの整備をしたり、アンテナを立てたりしたのに・・・送信機が故障して修理待ち。庭の草を摘んだり庭木の芯を剪定したり、結構忙しい毎日です。」の便りの後、平成12年(2000年)には「病気になり休んでいる間に女房が半身不随になり・・・小生も足元がふらついていますが、それでも軽4に車椅子と女房を積んで医者通いをしています」と寂しい便りを「RAINBOW NEWS」に寄せている。

この年の12月には「心臓を悪くして入院いたし、ただ今も入院中です。手が震えて字が書けません」そして、平成14年(2002年)には、ご子息の力さんから悲しい便りが投稿される。「父はかねてからの心臓病が悪化、地元病院に入院加療中でしたが、本年6月3日死去いたしました。遺体は献体として現在富山医科薬科大学に安置されております。父生前中は皆々様のご厚志を賜りありがとうございました」86歳であった。

古田さんが亡くなった2ヶ月半前の3月18日、江戸重富さんも亡くなっている。江戸さんは、NHK退職後、JARLの活動に力を入れ、JARL北陸地方事務局の局長も勤めた。その江戸さんは88歳での訃報だった。戦前のハムの集まりである「レインボー会」には、江戸さん、木下さん、田畑さん、古田さんの4人が参加した。古田さんは盛んに投稿され、時には江戸さんが近況を書かれた。

その「レインボー会」も、会員の高齢化のために、平成12年(2000年)の第20回の集まりを最後に解散した。アマチュア無線の世界でも戦前ははるかに遠くなったといえる。ちなみに「レインボー会」は解散したが、東京周辺の戦前のハムの集まりである「レインボーDX会」は、現在も例会を開いており、10数名が参加し、近況を報告しあっている。現在では、この集まりが戦前のハム達の消息を知る唯一の手がかりである。

平成2年度のレインボー会総会

戦前の北陸のハムが使っていたQSLカード。右下は江戸さんの「電話局」時代のカード(元野政信=JA9WBさん提供)