[第1回アマチュア無線技士国家試験]

戦前のハムの時代から戦後のハムの時代に話しを進める。戦後、アマチュア無線再開に向けて、JARLが中心になって早くから活動が始まった。しかし、順調には進まなかったことは、これまでの他の連載でもしばしば触れてきた。円間さんはこのような東京での動きを、戦後発行された「CQ ham radio」で知るしかなかった。

昭和25年6月1日の「電波3法」の施行、26年の第1回アマチュア無線国家試験の実施予定なども「CQ」誌で知ったものの、詳しい情報は皆無であった。当時、北陸でもっとも情報が集まっていたはずの田畑さんでさえ、情報不足に困っていた。各エリアでも受験者が個々に情報をつかまなければならなかった。

この当時のことを円間さんは「情報では無線実験と電波法規の2教科の試験とわかってきたが、戦後初の試験なのでどんなことを勉強すれば良いか、皆目見当がつかない・・・。受験に適当な参考書などは市販されておらず、先輩の田畑さんにお聞きしても、見当がつかないという情況だった」という。

そこで、円間さんは「CQ誌」連載の森村喬(戦前J2KJ)さんの「無線送信機」の講座を最初から熟読するとともに、勤務先の書庫で見つけた「電波法一式」を借りる。「書類は厚さ10センチほどもあり、技術用語は漢字を多用しており、当時アマチュアが使用していた英語交じりのカタカナとはずいぶん違い、困惑した」ことを思い出している。

円間さんは、欧文の電信は海外の14MHz以上の交信を聞き、勉強していた。このため、1級を受験するつもりでいたが「1級には和文の電信もあることを知り、急いで勉強したが、間に合いそうもなかった」ため、2級に切り替えて受験することを決める。試験は昭和26年6月26、27日に金沢市で行われた。

[合格者5名]

この時の北陸の受験者は1アマが5名、2アマが15名の合計20名であった。福井県からは田畑さんが1アマ、円間さんと平等忠継さんが2アマを受験。結局、合格したのは1アマでは田畑さんと石川県の宮腰幹雄さんの2名、2アマでは円間さん、平等さんの他、石川県の仙波幸男さんの3名であった。「同時に受験した2人の先輩と3名が揃って合格したのは大変な喜びだった」と、当時を振り返っている。

合格はしたものの開局までの道のりは遠かった。昭和25年6月に朝鮮戦争が勃発したことも原因であった。日本を統治していたGHQは無線による諜報活動を恐れた。受験しなかった人、不合格だった人、さらには合格者のうち何人かはアンカバー通信を始めた。「とくに日曜日の夕方など、14MHzに日本人らしい声が多数聞こえた」ことを円間さんは覚えている。

円間さんは多忙であった。電信受信と英語の勉強、送信機の発振、逓倍、増幅、変調などの技術習得のほか、海外へのSWLカードの発送に時間が必要だった。昭和27年2月ごろ、東京の庄野久男さんが無線局開設を申請し、当局が受理したことを新聞で知った。庄野さんは受理されたことを即座に、JARLや知人・友人にも知らせ、また、全国にも知らせた。ただ「福井の末端会員までは周知がされなかったようだ」と円間さんはいう。庄野さんの活躍は「関東のハム達.庄野さんとその歴史」に詳しく触れている。

円間さんが昭和26年に取得した2アマの無線従事者免許証

[予備免許]

開局が現実となったことに円間さんは興奮したものの「送信設備は未完成、申請書類の複雑さを考えると自分にはとても無理と思った」と、当時を振り返っている。それでも「なんとか自分の局を持ちたい」との一念から開局申請に取り組む。戦後、再開されたアマチュア無線の初期の頃の話になると、ほとんどのハムが「開局申請書類」作成の複雑さを指摘する。

それにあえて挑戦した円間さんは、電波法の無線局免許規則にある「雛型」を自分なりに解釈して作成。内容不備で返却を覚悟していたものの、電波監理委員会に受理される。「北陸最初の申請ということもあって、好意的に受けつけてくれたのでは」と、円間さんは今でもそう思っている。予備免許は昭和27年(1952年)7月29日に全局30局に与えられた。

北陸では円間さん一人。官報に告示され、新聞にも氏名が掲載されていたが円間さんは気づかずにいた。8月初旬、東京の市川洋さんが7MHzで試験電波を出しているのを聞いていると、北陸の円間も予備免許を取得したという。正式に届いた予備免許状によると、コールサインはJA2WA、7050、7087.5MHzのスポット2波のみで、3.5MHz帯の指定なし、空中戦電力も50W申請に対して10Wの指定となった。「不満足ではあったが、正式な免許をいただけたことはうれしかった」という。

無線局開局のためには申請書類は繁雑なものであった。申請書1項目