JA9AA 円間毅一氏
No.13 円間さんハムに(2)
この時のプリフィックスは現在と異なり、関東と信越がJA1、東海と北陸が北陸がJA2とされた。事前にJARLや東京の庄野久夫(JA1AA)さんらは、電波監理委員会に対して「全国は10エリアがあり、エリア別のプリフィックスを」と要望していたものの実現しなかった。この時のいきさつについては「信越のハム達。小林さんとその歴史」や「関東のハム達。庄野さんとその歴史」で触れている。
JA2は、東海がJA2AAからJA2VZ、北陸がJA2WAからJA2ZZと割り当てられた。昭和29年、開局申請が増加し、サフィックスが一杯となる恐れが出てきたこともあり、プリフィックスはようやく電波監理局別に変更された。信越や北陸のハムは慌ててQSLカードを作り直した。円間さんはJA2WAについては「東海とおなじJA2で混同されたりしたが、2年後には世界的に通用する北陸地区最初のアマチュア局を意味するJA9AAに替わるとは当時はとても想像できなかった」と、振り返っている。
JA2WAのQSLカード
[開局]
無線局の落成期限は9月27日であり、2ヶ月しかなかった。周波数がスポット指定のため水晶片が必要になった。早く入手するルートがなく「面識もないのに厚かましくも庄野さんに手紙を書き、入手方法をお尋ねしたところ金石舎を紹介していただけた」という。金石舎からは2カ月程度かかるといわれ、円間さんは落成延期願を出そうかどうか迷っていたが、水晶片は20日も早く届き結果的には間に合った。
この頃のことについて円間さんは鮮明に記憶しており、細かく記録してもいる。それによると、真空管類は夜行列車で東京の秋葉原に買出しに出掛けている。終段と変調には当時誰もが使ったUY807を使用し、それ以外はメタル管を使うことにした。メタル管は高価ではあるが、動作が安定しており堅牢なためであった。
この時期、全国の米軍基地近くの都市には放出品が出回っていたが、金沢にはなく円間さんは蒸気機関車の煙で顔を真っ黒くしながら東京に行った。季節は夏。冷房のない汽車では窓を開けて風を取り入れるが、トンネルに入るときに窓を閉め忘れると、煤煙が汗ばんだ顔に付くのが常であった。
開局当時の円間さんとシャック
円間さんの最初の自作送信機
抵抗器、コンデンサー類は地元のラジオ屋さんで手に入り、トランス類も拡声器用の物を頼めば同様に入手できた。バリコン、送受切替リレーなどにも苦心した。終段のプレート用バリコンはラジオ用のローター、ステータを1枚おきに抜き取り、スパークを防止させた。高周波用リレーは電話局で使用している接点間隔の広い物を貰い受け、低圧直流電源の整流器にはセレン整流器を使った。アンテナは自宅近くの崖から自宅庭の木まで70mのロングワイヤーを架設した。
自作の送信機は、別図の通りのものであるが、情報の少ない北陸にあって見事なものを作りあげた。調整は、逓倍段のない回路のため周波数のまちがいが出にくく、簡単に調整できた。終段のグリッド電流を水晶発振器の同調バリコンにより、テスターの最大点近くになるように調整。次いで、仮調整として20Wの電球をアンテナ端子につなぎ、バイマッチの2つのバリコンで調整してプレート電流にデップがあり、しかも電球の最大輝度が得られるようにした。
[試験電波発射]
昭和27年9月20日、無線局工事落成届と同時に、試験電波発射届を北陸電波監理に提出、早速試験電波を出した。「当時の7MHzは朝夕に数局が出ているのみで、実に閑散としていた」時代である。「ただ今、試験中、本日は晴天なり、こちらはJA2WAのアナウンスを繰り返す日々が続いた」という。同様に試験電波を出していたある局は、交信せずに一方通行の放送なら内容は適当に変えてもいいのでは、と考えた。
そこで「JA###の信号は当地TTT市では59で良好に入感しています。こちらは試験中JARRR」とやったが、問題にはならなかった。試験放送発射数日後からは、全国から受信報告が届き、多い日には10通ほどにもなった。配達する郵便局もびっくりしていたが、円間さんも慌てた。急ぎ印刷屋にガリ版刷りのカードを作ってもらった。アクセサリーに福井の名物でもある「越前ガニ」をあしらったが、珍しいそのカードを記憶している当時のハムは少なくない。
落成検査は10月2日。金沢市にあった北陸電波監理局から2人の検査官がさまざまな測定機を持って訪ねてきた。当時、検査を受ける人の多くは要領がわからないことや、検査の重圧を逃れるため、少なくとも1人、多ければ数人の先輩や仲間を手伝いに呼んでおくのが通常だった。しかし、円間さんは「1人でビクビクしながらの試験を受けた。厳しい1日でした」とこの時のことを振り返る。
しかし、試験は周波数測定、電力測定ともに規定値以内で合格。空中線電力を50Wから10Wに、変調方式をクランプ真空管変調からプレート変調に、最大変調度を100%から70%に訂正することなどを指摘されるのにとどまった。検査官も「検査合格」と記された無線検査簿を手渡しながら「本日から運用を開始してもよい。北陸で最初のアマチュア無線局の開局 おめでとう」と祝してくれた。
昭和28年秋。北陸のハム7名が揃った。左上から故木越さん(9AI)、小室さん(9AB)、沢田さん(9AD)、左下から円間さん(9AA)、吉田さん(9AK)、長谷川さん(9AC)、故江戸さん(9CX)