[初交信]

初交信は翌10月3日午後8時だった。勤務が同じ日本電信電話公社の九州に勤務している板橋康博(JA6AA)さんとであった。交信内容は平凡なものだったため、後年、円間さんは「開局時の歴史的な交信にはもう少し内容を考えておくべきであった」と反省している。この初交信に対しては、傍受している多くの正式免許局(非アンカバー局)から次々に「北陸で最初の局」と祝辞をもらっている。

円間さんの毎日は楽しくなった。2アマには7MHzの他に50MHz、144MHzが許可されていたが、ほとんどの局が7MHzのたった2波しかない周波数を使っていた。それでも局数が少ないため、朝夕ともに快適な交信が楽しめた。話題は局設備の情報交換で占められた。交信でわかったことは、送信機の終段管は807が多かったが、6V6、1625、UZ42、6ZP1なども使われていた。

アンテナはダイポールを使用した局もあったが、多くは終段同調回路にパイマッチを採用し、整合が簡単な逆L(ロングワイヤー)であった。開局後、初めての訪問者は福井市の高校生である川口哲男(JA9FS)さんだった。数時間に1本しかないバスに乗って訪ねてきてくれた。円間さんは「あまりにも貧弱な設備に期待はずれしたのでは」と今でも気にしている。

[1アマ・2技に合格]

毎日の交信は楽しかったが、同時に円間さんの不満も高まってきた。当時は7MHzでもCW(電信)局が多く、とくに海外との交信にはCWが必要だった。また、祖父からは「毎日同じことをしていては進歩がない」ともいわれた。そのため、1アマの受験を決意したが、調べてみると2技(第2級無線技術士)との試験内容にあまり差がないことに気づいた。そこで、両方にチャレンジすることにした。

電信では、欧文は中学時代にマスターしており多少の自信はあったが、和文は知識がない。そこで、勤務先の本職の有線通信士である本堂慶造さんについて勉強を始めた。このころ、円間さんは金沢市池田町の小室圭吾(JA9AB)を訪ねている。北陸で最初の1アマ局である小室さんに参考となる話を聞きたいと思ったからでもあった。訪ねたシャックには米国製のNC-1001があり「初めて見る米国製の受信機に驚いた」という。

和文CWを教えてもらった本堂さん

昭和31年(1956年)3月、伏木港に入港したユーゴースラビアの貨物船に通信士として乗りこんでいたシリル(YU3AE)さんを訪ねることになった時、小室さんに同行してもらっている。小室さんはその後、金沢大学を卒業し国際電電に勤務のため金沢を離れたため、円間さんが金沢に転居したものの入れ違いとなってしまった。ちなみに、小室さんは現在はJA1KABとなり、IARU(国際アマチュア無線連盟)の第3地域事務局長として活躍中である。

右から北陸最初の1アマである小室さん。真ん中は旧ユーゴスラビアの通信士シリルさん。一番左が円間さん

円間さんが挑戦した1アマは、昭和28年(1953年)8月に合格となり、9月5日に変更が許可される。さっそく3.5MHz、10Wでの交信を始めたが、米国の多数の局との交信ができるようになった。ちなみに、その後、本堂さんは同僚の向出隆さんとともにJA9OA、JA9HAとなり、また、郵便局の大島政博さんもJA9IEとなる。円間さんが三国電報電話局に勤務していた3年半の間に、それぞれ円間さんに感化されたといえる。円間さんは「ハム・ウィルスを撒き散らしました」と、当時のことを冗談めかしていう。

[業務機から技術職へ]

その円間さんにも職場での変化が巡ってくる。2技の試験は翌29年(1954年)6月に全科目合格したが、その1カ月前の5月、日本電信電話公社の鈴鹿電気通信学園に入校することが決まった。同公社は「電信電話設備拡充計画」をスタートさせ、電話の自動化と全国即時化を推進することになり、それにともなう中堅技術者の養成を急ぐことになった。同学園は旧海軍の鈴鹿飛行場の跡地に設けられ、1年間で現在の短大・高専の2年分のレベルまでの教育を目指した。

鈴鹿学園 無線のシンボルである鉄塔と学生寮(後景)

学園生は時には外部の関係私設に技術見学に出掛けた

学生数は300名。線路、交換、搬送、無線の4班に分かれ、円間さんは運良く「無線班」で学ぶことになった。数学、物理、英語の一般教科、電気磁気学、無線工学、無線実習などの専門学科を密度濃く勉強せざるをえなかった。円間さんそこで数KW出力の水冷式短波送信機、200MHz・FM変調多重電話装置を初めて見て感激する。生徒の中にはハムもおり、時にはハム談義に夢中となった。

このころのわが国は、アマチュア無線が再開されただけでなく、民間ラジオ放送が始まり、次いでテレビ放送がスタートした。さらに、短波放送が始まり、マイクロウェーブ回線が日本国土に張リ巡らされつつあった。いわば、わが国の無線通信産業にとっては、戦後第1回の「ビッグバン」の時期でもあった。