福井無線中継所の新設工事に加わった円間さんは、受信アンテナから送信アンテナまでの一貫した工事に携わることになったが「中継所の全装置を勉強できる絶好の機会になった」と感謝している。同中継所の装置は、それ以前に勤務していた大野木中継所と比較して回線容量が増加しているにもかかわらず、装置全体が小型化され、アンテナもパスレングスからパラボラアンテナへと小さくなった。さらに、供給電源は直流から交流に、保守も無人化され、回線故障時は自動的に予備回線に切替えられるようになっていた。

鉄塔上で双眼鏡により相手局の方位測定を確認している。双眼鏡を持つのが円間さん

[パラボラアンテナとの出会い]

円間さんは、そこで初めてバラボラアンテナを知る。効率の良いアンテナで知られる「八木・宇田アンテナ」は、日本で発明されたが、パラボラアンテナはどうやら欧州で発明されたらしい。簡単な調べではあるが、日本には太平洋戦争前の昭和15年(1940年)ごろに入ってきたらしい。レーダー用アンテナとして密かに開発されていたが、戦後にはしばらく使われることがなかった。

電波そのものの使用がGHQによって制限されていた上に、パラボラアンテナが必要なマイクロ波帯が使われていなかったためである。どうやら、戦後になってわが国でパラボラアンテナが使われ出したのは昭和30年(1955年)代になってからと思われ、円間さんは初期のころに出会ったことになる。

このため、円間さんは旺盛な好奇心をもって、パラボラアンテナの方向調整、利得測定の知識を吸収した。円間さんが知ったのは直径4mのパラボラアンテナで、周波数4000MHzを受信、指向方向が最適で40dBの利得が得られる場合、水平指向性が1度ずれると4dB、2度ずれると15dBも利得が低下することであった。

このため、正確に相手のパラボラアンテナに方向を合わせる必要があるが、太陽光を適度な大きさの鏡に反射させ、肉眼で相手が確認する方法で決めていた。実際にマイクロ波を出せない場合には現在でもこのような方法で設置しているらしい。また、利得の測定は正確に計測された「電磁ホーンアンテナ」に、標準信号発生器の信号をつないで、基準レベルの電波を発射し、測定するパラボラアンテナの出口で電界強度計で測定した。

屋内で90度曲がった導波管の試験をする円間さん

[10数年で消えた交流無停電電源装置]

円間さんが驚きをもって学んだのが商用電源が停電になった時の無停電電源装置であった。この装置は「ディーゼル機関」―「電磁クラッチ」―「フライホイール」―「誘導電動機」―「交流発電機」と、連動して構成されていたという。誘導電動機は常時、商用電源により回転し、その同軸上で直結されている交流発電機出力が無線機の電源となっている。この時の状態ではフライホイールも同時に回転している。

交流無停電電源装置のシステム

停電が発生すると、瞬時に電磁クラッチが働き、同一軸のディーゼル機関の回転軸とを電磁的に接続し、フライホイールの回転エネルギーでエンジンをスタートさせる。この結果、交流発電機からの出力は瞬断されることなく、発電機の駆動源はモーターからエンジンに切り替えられることになる。

回転数は常時1200/分。「定期的な保守作業が必要であり、その時には予備電源に切り替えるため瞬断が避けられず、また、年に数回はどこかの中継所でエンジントラブルを発生し回線障害を起こすなど整備作業で苦労した」と円間さん当時を振り返る。その対策としてエンジン発電機をもう1台増やし同期切替方法を採用したが、その後の中継装置のトランジスター化による電源の直流化にともない、この装置は10数年で廃止された。

[進行波管/クライストロン]

昭和32年(1957年)当時、マイクロ波中継装置に使用されていたのが、進行波管の4W-72やクライストロンの2K54などの真空管であった。4W-72は1本で発振と増幅を同時に行い、4000MHzのマイクロ波でも3W以上に達する。磁石に巻かれた細長いガラス管中に4つの電極をもち、各電極には1500-4000Vの高圧をかけるため、調整は簡単でなかった。

クライストロンは小型で、キャビティが内蔵されているものと外付けの2種あり、2K54は内蔵型。簡単にマイクロ波を発信できる他、リペラーの電圧を変化させると、発信周波数が比例して変化するため、広帯域で直線性の良いFM変調機に使用された。さらに、リペラーに鋸歯状波を加えると出力波をスイープしたことになるため、マイクロ波帯の試験装置に多く使用されていた。

広帯域増幅管の形状は一般のMT管と同じであるが、利得と帯域幅の積が大きいこと、雑音指数が少ないこと、入力コンダクタンスが少ないこと、電気的ばらつきが少なく、劣化が少ないことの仕様を満たして造られていた。6MH1、6RR8、6RP10などがあり「ジャンク屋で時々見かけたものの使用された例をあまり見かけなかった。規格が一般に公開されなかったためではないか」と円間さんはいう。いずれにしても、円間さんはこの当時、最先端の技術を日々学ぶ生活を続けていた。