JA9AA 円間毅一氏
No.17 円間さんハム生活(3)
[結婚そして再びアマチュア無線]
アマチュア無線と離れた話題を続けてきたが、円間さんは結婚と同時に再びアマチュア無線に取り組み出す。通常は結婚を機会にアマチュア無線から遠ざかるケースが多いが、円間さんの場合は別だった。昭和34年(1959年)、結婚を契機に福井市郊外の浅水町の麻生津電話中継所構内の社宅に移る。当時は結婚すると優先的に社宅に入居することができたからである。
社宅は無線機を置く十分なスペースがあり、アンテナを建てる中庭もあったため、円間さんは「海外交信も可能な本格的な無線設備を自作する」ことにした。送信設備は出力電力A1.電信250W、A3.電話125Wを自作した。送信管には米国製の送信用ビーム管813を使用し、プレート電圧2KVで出力250Wとし、電源は直流2000Vで水銀整流管966の2本を両波整流で使っている。
当時の円間さんのシャック
送信機構成図
電源トランスと変調トランスは、福井市内では手に入らないため、関東の専門メーカーに発注。受信機については知人から「自作機でよいから欲しい」といわれて、自作機を譲ったのを機に米国ハマーランド社製の中古BC779Bを購入した。「購入資金の1部はテレビ受像機を組立てて得たアルバイト代だった」と円間さんはいう。
[2素子八木アンテナも自作]
14MHz専用の八木アンテナも細い鉄パイプを使用して自作した。北陸では最初であった。3インチ水道管3本を継ぎ足したポールに2素子のアンテナを乗せ、ポール継ぎ目の上下フランジ間にベアリングを挿入し、支線の障害なしに全方位回転を可能にした。ただし、当時は電動型のローテーターが市販されていないため、必要に応じて庭に出て手で回わさざるをえなかった。「回転に従って電波が浮かび上がり、その性能に感激した」という。しかし「アルミパイプや同軸コードがなかなか入手できずに苦労しました」と円間さんは振り返る。
社宅に自作の八木・宇田アンテナを建てた
社宅は国道8号線から数百m離れた田圃の中にあり、車や福武線の電車からアンテナが目立ったため、毎夜のように来客があり海外との交信を話題にして楽しんだ。よく訪ねてきてくれたのは宮本重雄(JA9FJ)川口哲男(JA9FS)伊藤重行(JA9GJ)笠島薫(JA9HH)生駒義男(JA9ZQ)さんらであった。
この当時は、セイロン島に世界的に有名であったXYLのソマ(4S7YL)さんがおられ、日本語を少し話せたために日本のハムに人気があった。「下手な日本語と下手な英語でも初めて外国と交信できて皆喜んでいた」と、その時のことを思い出している。ソマさんは後にモルディブ島に移り、8Q7YLになったが「最初は初めて聞くプリフィックスにどこの国かわからずとまどった」と円間さんはいう。
この年の4月2日午後10時過ぎ、円間さんは南極との交信に成功する。南極観測隊員の高室隊員(8J1AA)がノールウェーの観測隊であるLA1VC/Gと交信した後、円間さんの呼び出しに応じる。「当時、話題となった樺太犬の太郎・次郎」のことを聞きたかったが、業務多忙らしく短時間で終わってしまい物足りない気がした」と円間さんは当時を語る。
[SSB受信機を自作]
昭和35年ころになると、それまでの電波形式であるAMに対してSSB(シングル・サイド・バンド)による交信が増えだした。円間さんは「SB波を発生させる技術記事がアマチュア無線雑誌に掲載され、なかでもCQ ham radioに載っていた難波田了(JA1ACB)さんの紹介記事に興味をもった」という。
さっそく挑戦することになった。SB波の発生には「フェージング型」「フィルター型」の2方法が知られていた。「フェージング型」はR、Cの値が厳密に規定されており、部品の入手は難しかったが「フィルター型」は入手が容易であった。そこで、円間さんは「中間周波数455KHzに近い米軍放出のFT241型発振子3個1組を2組使用して試作する」ことにした。
自作SSB無線機の上部と下部
問題は、このフィルターの調整に発信器とレベル計が必要なことだった。円間さんはそれも自作することにした。発信器は中間周波トランスを利用し、レベル計はダイオードと高感度電流計で代用することにした。出来上がったフィルターはキャリア漏れがあったり、不使用側波帯の減衰が不十分であったりして満足できるものではなかった。
それでも「誰かに聞いてもらうことが一番いい」と、3.5MHzで試験電波を出し、鯖江市の笹島(JA9HH)さんに電話して受信を依頼した。笹島さんからは「ノイズの無いところに突如きれいな音声が飛び込んできた」と、初めてのSSB受信に驚いたという返事があった。円間さんは、自信を得てオールバンド機に組み込んだ。
ほぼ時を同じにして川口さんが自作のSSB発生器を円間さんの所に持ち込んだ。円間さんは「きれいな仕上がりで感心した」という。一緒に来た生駒さんは当時中学生だったが、その後も10Kmの道を自転車にのって何度か円間さんを訪ねている。その生駒さんは現在は福井放送の技術部長の職にある。