[金沢に勤務]

昭和38年(1963年)秋、円間さんは金沢に転勤する。それまでの中継所保守の仕事から離れて、管内の機器全般の保全計画、職員の技術力向上、電波管理局との対応などが主任務となった。「親しい友人との別れ、せっかく建てたアンテナ、快適な社宅などの無線環境からの転居は戸惑いがあった]と、当時を語る。

しかし、鈴鹿で1年、大野木で2年の寮生活の経験もあったため、円間さんは単身で金沢に赴任することにした。寮は当時、市立工高のあった泉野町にあり寺町2丁目から、同心町にあった金沢無線通信部まで市電で通勤した。このころの円間さんの記憶に残っているのは昭和38年(1963年)冬の「38豪雪」だった。

「家々が屋根の上に積もった雪を道路に下ろすため、2階が道路と同じ高さとなり人は2階の窓から出入りしていた。市電、バスも止まり、自衛隊の戦車と北陸電力の雪上車のみが走っていた]と円間さんは当時の光景を思い出す。職場までは徒歩で2時間ほどかかるため、朝8時に寮を出、午後3時に退社する日が10日ほど続いた。深刻なのは食料であり「寮母さんが食事の材料を心配していた顔」を今でも思い出すという。

[99賞の発行に携わる]

昭和37年(1962年)円間さんはJARLの本部理事に就任する。翌年JARL北陸支部は「99賞」を制定した。「99賞」は、9エリア3県の各3局、合計9局との交信、または1バンド3局、3バンドで9局との交信に9エリア各3県の局が含まれていることに対してのアワードである。その名称、規約、賞状のデザインづくりに円間さんは加わった。

金沢クラブで円間さんが「99賞」の概要を説明し、賞状を披露したところ、その場で川口隆啓(JA7UU)さんが申請。「これには私も驚いた」と円間さんはいう。当然、第1号の受賞者は川口さんであった。「99賞」は、現在でも続いており国内外合わせると約2000枚のアワードが発行されている。「関係者の一人として、40年間も発行し続けてきたことはうれしい限り」と円間さんは喜んでいる。

[テレビ映像の送受信に取り組む]

金沢での勤務に慣れると、円間さんはアマチュア無線がしきりに恋しくなった。しかし、寮住まいでアンテナも建てられず、装置を置くスペースもない。「それなら6mか2mでラグチューでもと思ったが、せっかくの余裕時間を活用する別の方法はないか]と考えた。そのころ「ラジオ技術」誌にテレビ装置の製作記事が掲載されており、それまでは入手が困難であったビジコン撮像管、コイルが市販されることを知った。

円間さんはかってモノクロテレビとカラーテレビの受像機を組み立てた経験があった。また「テレビ送信機の自作により、テレビ放送局の技術者と映像について話ができ、少なくとも故障原因などの議論ができるようになりたい」と考えたのもテレビ送信機自作の目的であった。タイミング良く、ある雑誌に一の瀬和泉(JA6BND)さんが「アマチュアTV入門」を30回近く連載していた。

円間さんは、この連載を興味あるハム仲間に見せて、実験を呼びかけた。さっそく、テレビカメラ部に必要なビジコン撮像管、偏向コイル、映像増幅、水平・垂直・同期発生装置を揃えた。ビジコン7038に水平・垂直の偏向コイルが付いたキットを購入し、小型化を図るために6U8、12AT7、12AU7の複合管を使用、また、真空管用電源と同期信号発生機は外部から供給するようにした。さらに、家庭用テレビでモニターできるようにVHF変調器を内蔵させた。

カメラ内部の写真。ここまで作るのに1年ほどかかった

[出きる限りの自作]

同期発生装置は市販品が高価なため自作することにしたが、当時はトランジスターが普及しておらず、複合真空管を15本も使うことになった。垂直の同期信号は商用電源の60サイクルを利用し波形整形して偏向信号を作り、水平同期信号はテレビ用の水平発振用コイルで発振、同様に波形整形して偏向信号を作成した。この水平・垂直の同期信号は混合して、複合同期信号と複合ブランキング信号としカメラ回路に供給するようにした。

テレビカメラの同期信号、映像信号の波形とレベル観測にはオシロスコープが不可欠であるが、やはり高価なため円間さんは自作した。当時の「トリオ」のキットCO-3Kを求めて作ったが「回路も簡素であり同期発生装置の調整に立派に役立ち、現在でも使っている」という。

問題は、適当なレンズが見つからないことであった。16mmのレンズが必要なのだが、市販されている新製品は高価であり、どうするか悩んでいると、職場に出入りのカメラ屋さんが東京光学の「ズノー」の高級品が中古品であるといい、格安で提供してくれた。