[旺盛なチャレンジ]

テレビ送信機に挑戦した円間さんの苦闘はまだまだ続く。それまでの無線通信の世界では波形といえば正弦波に決まっていたが、テレビでは矩形波、のこぎり波があり、発信回路ではマルチバイブレーターやブロッキング発振器、さらに波形操作などで、微分・積分回路の知識が必要になった。「市販本を買ってきて勉強することになった」と、苦労を語る。

実は円間さんはテレビ送信のために電波監理局に許可申請を出していた。カメラ部分ができ上がったため、昭和39年(1964年)1月初めのJARL北陸支部の役員会で、モニターテレビに映像を映した。[同期ずれとブランキングに少し問題があるが試作としては上出来」と評価されていた。「それに自信をえた」と、円間さんは当時を語る。

1月26日付けで、430-440MHzがスポットからバンド割り当てとなり、A3、A5、A5C、A9が許可されることになっていた。また、円間さんは「残っている無線部分はお手のものと簡単に思い、申請した]という。変更申請はその年の1月16日、新たにテレビ映像伝送のA9、435MHzを加えた。許可は3月2日だった。

[映像・音声の同時送信可能な自作送信機]

許可申請までしてしまった円間さんは開発を急ぐ必要があった。簡単だろう、と高をくくっていた無線部分も初めての435MHzのFM送信機のために苦労した。終段のコントロールグリッドに映像信号を入れて変調をかけ、スクリーングリッドに4.5MHzのFM音声信号を入れて変調をかけ、一台の送信機で映像、音声の同時送信が可能なものとした。

(図1)が映像送信機の構成図であるが、V・Uでも安定な動作をするような余裕のある真空管で構成し、3逓倍させて終段増幅はプッシュプル、銅板の平行線同調回路を採用。真空管はすべて電電公社の払い下げ品を再利用した。

図1

(図2)は音声送信機である。4.5MHzで十分なFM変調が得られるように、375KHzから逓倍数を12として4.5MHzのFM波を作成。変調は歪が少ない6BE6の2本でベクトル合成移相変調を採用している。アンテナにはアマチュア無線用10素子八木・宇田アンテナを、U/V変換受像には市販のUHFコンバーターを使った。

図2

[試験電波発射]

昭和43年(1968年)5月、すべての設備が完成した。開発を開始してから約5年がかかっていた。円間さんは試験をくり返し正常に動作することが確認できたため、実際に電波を発射し受信状態をテストすることにした。試験電波発射届は5月15日だった。空中線電力は10W、約2Km離れた金沢市彦三町の木越勝二(JA9AI)さん宅で受信してもらった。

木越さんもアマチュアテレビの試作をしており、受信依頼にはぴったりだった。円間さんは自宅からテスト画像を送りっぱなしにして、受信用アンテナ、コンバーターを抱えて木越さん宅に駆けつけた。画像の品質はノイズもあったもののテスト画像が確認できた。7月16日には落成検査に合格、この話題は新聞にも報道された。

円間さんは、あまりにも長期間かかった開発を「同期発生装置が複雑なため製作にてこずった」「送信機終段の430MHzの同調回路の同調点を探すのに時間がかかった」と分析。もう一つ、生活上の問題点として「長女誕生を機に自宅が欲しくなり、土地探し、建物の設計打ち合わせ、工事立会いなどに忙殺された」ことをあげている。

テレビ送信機。上から映像終段増幅部、映像励振部、音声励振部・終段増幅部、FM音声変調部、同期信号発生部、電源部

[アマチュアテレビ初交信]

この当時、金沢市や近郊にテレビ交信相手はいなかったが、木越さんが設備を完成した10月28日に2ウェイ―テレビの交信に成功した。「木越さんの設備は一部をメーカー製で組み立てたためか画像が安定しており、設備自体もきれいなものだった」という。続いて、県内内灘町の松浦清(JA9JQ)さんと10月31日に交信した。松浦さんの設備はすべて自作。映像送信終段管は2B52(後に4X15Aに変更)音声送信終段管は6360を使用。出力はともに10Wであった。

わが国初のアマチュアテレビ交信は、昭和40年(1965年)11月2日に東京・杉並の東京ビデオクラブ(JA1YNZ)と、新宿の山口意颯男(JA1DI)さんで435MHzで行われたものである。円間さんの交信は北陸で最初であるが、全国で何番目かは記録がなく、調べようもなかった。

円間さんで受信された松浦さんのテストパターン