[自宅の建築]

アマチュアテレビはその後交信相手が増えず、三人だけでは話題も乏しくなってきたことや「運用を続けるためには絵や写真などの素養も必要であり、当初の目的に合わないように思えて」円間さんは一時休止することにした。電波が飛び絵が映ったことでやり遂げた気持ちもあったらしい。

その後、円間さんは自宅をたてるために土地探しを始める。山頂の中継所勤務で味わった景観の素晴らしさが記憶に残っており、見晴らしが良く電波が飛びそうな所を探していると、知人が金沢市内卯辰山近くの高台に適当な土地を紹介してくれた。ただし、南と西は開けているが北東から北西にかけては背後の卯辰山が障害になりそうだった。

そこで、円間さんはトランシットで仰角を測定する。7度前後あり「あまりDX向きではなかったものの、市の中心にも近く環境は自然が多く育児にも良かったことから決めた」と言う。屋上にはアンテナ柱を建てる夢があったため設計時に屋上に基礎ボルトの打ち込みを依頼した。「麻生津から鉄管柱を移設し、長年の願望が果たせた」と円間さんはその当時を語る。

組み立てが終わったクワッドアンテナ

転居を機に無線設備もすべて国産に切り替えた。DXの交信には「RIT」機能と送受信機間の「トランシーブ」機能が必須になってきたためであった。「自作も考えたが、一度日本のメーカー製品を使ってみたかったのも理由であった」と当時の思いを話す。自作した愛着のある250W機は福井の永平寺の友人に、また、スーパープロ受信機は輪島の友人に譲った。

[アンテナ組み立て]

アンテナは川口哲男さんから3バンド・4エレのキュービカルクワッドのキットを購入した。この当時、クワッドは電気的にも構造的にも発展期であり「調整も含めてある程度の経験が必要であった」という。このアンテナは当時としては大型であり、縦、横ともに約5m、長さは7.5mもあり組みたてにはそれ以上の広さが必要だった。幸い隣の空き地が利用できた。

4個のX型マウントにグラスファイバーのスプレッダーを付けたブームを、高さ5mの2本の柱に保持させ、スプレッダーに各バンド3本、計12本のエレメントを取り付けると完成する。合計48カ所の取り付けが必要であり、面倒な作業となったが、円間さんは「1人でのんびりできる作業のため、楽しいものだった」と懐かしんでいる。

アンテナのインピーダンスマッチングにはガンマ・マッチを採用、そのコンデンサをバンド別に作ることになった。2枚の薄い銅板の中にテフロンテープを巻き込み、それを同軸コネクタの付いた写真用のフィルムケースの中に入れて作った。自作ではあるが、耐天候、耐高圧で、任意の容量を作れてしかも安いことで当時では貴重だった。

円間さんはこの時、SWR計も自作した。太目の同軸コード8D-2Vの外部導体である網線と内部の絶縁ポリエチレンとの間に、絶縁された細い線を2本通して前・後進波のピックアップが出来るようにした。前進波・後進波の情況がリアルタイムで読めるように指示計を2個取り付け、さらに、前・後進波の較正が同時に出来るように2連のボリュームを使用した。「これも安く出来、SWRの調整が短時間で可能となり、実際に非常に役立った」と言う。

アンテナ調整用に建てた梯子。エレメント長を調整した

[アンテナ建て]

いよいよアンテナを鉄柱に取り付けることになったが、鉄柱を支える支線が邪魔になるためレンタル料がかかるが、大事をとってクレーン車を依頼した。アンテナを取り付けた後、饋(き)電線の間隔、長さ、位置の調整が必要で、川口さんと2人で深夜まで鉄柱に登り、電灯の光の中で作業を続けた。「その時の川口さんのファイトには改めて感心させられた」と円間さんは今でも感謝している。

反射器、導波器の調整は、友人に依頼して近くの高台に受信機を置き、エレメントの長さを増減することになるが、鉄柱からは手が届かない所もあり「梯子を立てての危険な作業であったが、安全ベルトを着け、梯子につかまりながら受信機側とトランシーバーで連絡しながら何とかやり遂げた」と言う。円間さんの記憶では「反射器の長さを変化させると受信感度の変化が読み取れるが、導波器による変化は緩慢だった」らしい。

自作したSWR計。表(上)と裏(下)

[性能良好]

完成したアンテナの飛びは良く、特にロングパスではヨーロッパは西南西、北米は南東と地形が開けているいるため、打ち上げ角の低いクワッドの特性と相俟って良く飛んだ。クワッドアンテナの特性について、円間さんは「珍局を呼ぶ時はパイルアップ時よりフェードアウトのちょっと前当たりが一番の好機である。珍局側では呼ばれていた大方の局が聞こえなくなった時にクワッド局に呼ばれることになり、こちらに応答があるということは、確実に届いていることの証しと思われた」と分析する。