クワッドアンテナを使い始めてから4年ほど経った年の秋、台風によりスプレッダが折れてしまった。このため、SWRと指向性が劣化し、ダイポールアンテナ並の性能となってしまい使うのをやめた。クワッドの改良型ができてから再建することにし、その間は4素子の八木・宇田アンテナを上げたが、飛びはまずまずであるが、初冬から冬にかけてのあられや雪の降り初めのノイズが多かった。

円間さんは「ノイズを文字で表現すると“カツカツ”から“カッカッカッ”に変わり、次いで“ガアーーー”の連続となり何も聞こえなくなる。冬の北陸はDXハンターには受難の季節」とやるせなさを訴えている。再び、クワッドを組立てたが、前回に苦労したマッチング用のコンデンサが銅管に饋電線を差し入れてキャパシティを増減する方式に改善されていた。

2度目のクワッドアンテナは堅牢で、耐高電圧性にも優れ、調整もスムースにできた。「確かにクワッドアンテナは雪国に向いているが、春一番、台風、冬の季節風など風速30mを超える風対策が必要。クランク アップ・タワー等を使用すれば万全。」というのが円間さんの考えである。いずれにしてもクワッドアンテナは円間さんに多くのDXカントリーを稼いでくれた。DXCC(100カントリー以上)WAZ(全40ゾーン)WAS(米合衆国全州)交信のアワードを達成した。

自宅屋上ポール際で満足そうな円間さん

[アンテナ移転]

その後、円間さんは富山に転勤し、昭和51年(1976年)5年ぶりに金沢に戻ってきた。再びリグの前に座りキーをたたき始めたが、しばらくすると友人が「近くの住宅にTVI(テレビ受信障害)が出ている」と教えてくれた。原因追求よりも現状把握が必要と考えた円間さんは、往復はがきで障害の有無を回答してもらった。約半分の家庭から回答があり、うち数軒に障害が起きていることがわかった。すぐに訪問して、数種類のフィルターを取り付けて回ったが、その内に各家庭のテレビ受像機が2台、3台と増え、プライベートな部屋に入ることをいやがる家庭も出てきた。

さらに、電波障害はテレビ受像機からステレオ、電話までに拡大して電話局からも問い合わせがあった。「いくら郵政省の検査に合格していても妨害を出す方が悪い」と言われるようになり、円間さんは「ついに無線設備の移転しかない」と候補地探しを始める。ある時、県立野球場の近くで、堤防脇に素晴らしいロケーションに頑丈な鉄塔が建っているハム局を見つける。

訪ねていくと、所有者は福山塗装の福田隆永(JA9JA)社長であった。一辺3mの基礎をもち頑丈そのもの。300mほど離れた場所に120mを超える民放テレビ局の鉄塔2本が建っている。「この程度は短波伝播には問題なく、かえって落雷の危険が避けられる」と思った。加えて、近くには民家がなく電波障害の恐れはない。絶好の場所であった。

[自作アンテナの構想を練る]

福田さんの話によると「VHFによる遠距離記録樹立と、月面反射交信用に建設したものであり、鉄塔は設計、アングル加工、基礎工事、組立、塗装などすべて自分でやった」とのことである。鉄塔の頂部にはモーター2基による回転台を取り付けてあるが「そこまで作ったころで、全国的にVHFのレピーターが導入されることになったため、計画を中断した」と話してくれた。円間さんは「北陸には大型のHFアンテナが少なく、自作した大型アンテナを実験したいので是非お貸しいただきたい」とお願いした。

福田さんは「私もHFに大いに興味をもっている」からと了承してくれた。いよいよアンテナ作りに取りかかったが、先に触れたとおり季節風、台風に対する対策が必要であった。クワッドは構造上からは無理、八木・宇田アンテナを上げるとすると強風への対応が避けられない。そこで、円間さんは(1)大型ローテーターの使用(2)ブームの2重化―2本並列使用(3)マストとエレメントのクランプを大型化(4)エレメントの絞りの工夫、に取り組むことにし大型八木・宇田アンテナを自作することを決断する。昭和62年(1987年)のことである。

福田さんのタワーに6素子アンテナを吊り上げ、取り付ける作業

[大型自作アンテナ(1)]

アンテナ製作に当たっては、円間さんブライアン・ビーズレイ(K6ST1)さんの開発したアンテナ設計プログラム「YO」を使用した。この「YO」は、周波数とエレメント数、ブームの長さを入力すれば、後は「YO」が計算し最適値を見つけ出しマッチング回路も図面と数値を出力してくれるというものである。エレメントやブームの長さは「YO」がmm単位で指定するため、工作には手間取った。

加えて、事前に検討していたパイプの入手ができなかったため、エレメントの先端が下がってしまう。円間さんは「YOの世話になりながら各エレメントの太さと長さを調節して何とか格好をつけた」という。組立てには15mと20m程度の空き地が必要であったが、隣接の休耕田を利用し、また、取りつけには再びクレーン車を使用した。

「YO」がはじき出した平面パターンと諸元